Thom YorkeはRadioheadがThe King of Limbsを引っ提げて回ったマンモス・ツアーを終え、オーストラリアから舞い戻ってきた。その3日後のことだった。オックスフォード・シティ・センター北部にある、趣のある300年もののホテル、そのロビーのテーブルに向かって座っている。すぐに「彼」だと気付かれてしまう、しかし彼はチェック・イン、チェック・アウトをする卒業生や旅行客たちの中、気取らず目立たないひとりの人間となることで他人の目を避けていた。無骨な顔を縁取る、顎に蓄えた灰色の濃い髭、長いダーク・ブラウンの髪、そしてよく知られるあの非対称の目をキョロキョロさせて。

メディアに対して壁を作っている彼が、この改装した遺跡にある暖炉の横でスパークリング・ウォーターを静かに口にしている、その姿を目にすることができるのは思いがけないことで、カウンセラーの発する言葉が取り巻く魂のない白い病室に隔離されているよりも心強く感じられる。公衆の耳に晒されている中でインタビューを進めることを心地良く感じるロック・スターはそんなに多くない、言うまでもなくそういったものから寧ろ逃れようとするだろう。Yorkeはレコードの売上なんかで評価される生き方を決して好まなかった。3000万枚の売り上げを記録するアルバムで彼の人生は変わり、歴史上もっとも影響力のあるソングライターとして称賛された。彼はどう考えているのか。答えを知りたければ、歌詞に耳を傾けるのだ。

1996年、最後に本誌の表紙を飾ったとき、それはYorkeがRadioheadの突破口を開くセカンド・アルバム、The Bendsで成功を収めているときだった。その当時、すべてをコントロールする強迫観念に囚われていることを自認する彼は「仲買人」を完全に締め出してしまった-ボイスレコーダーと2、3本のワインと共にひとりで部屋に籠り、酔っ払って腹を立てながら自分で自分にインタビューをした。そこから浮かび上がるのは興味を惹きつける、27歳の自分勝手な精神分裂病患者の姿-それは国際的に評価される苦しみにもがいていた、そして彼が振り返って見た鏡に映る自分の姿とはまったくかけ離れたものだった。一年後、OK Computerの多方面に渡る膨大な宣伝活動をさせられていたYorkeの中で、何かが「ポン」と弾けてしまった。そして深刻なうつ病に陥ってしまい、2000年のKid Aと共に再び現れた頃には彼やバンドに関わるすべてのものを信用できなくなっていた。ギターの代わりに難解なシンセとドラム・マシーンの音を取り入れるという急進的で新しいアプローチを受け入れるよう幼なじみを説得した。それはインディ・ロックのファンの多くを遠ざけることとなったが、結果としてバンドがその先も生き続けていくための鍵となった。それから彼らはAmnesiacでもその方法を用いた。そしてHail to the Thief、In Rainbows、The King of Limbs-常に自分たちの音楽の限界を再定義することを成し遂げ、文化に関与し続ける90年代に生まれた数少ないバンドのひとつという彼らの評判を不動のものとした。

44歳となった今、新しい表現の形を飽くことなく求め続けるYorkeはダンス・ミュージックを源とするデジタルの領域へと平行して足を踏み入れていった。最初にその兆候を露わにしたのは2006年のThe Eraser、彼のラップトップですべて作曲されたというアルバムだった。Kanye、 PharrellやLupe Fiascoらも短期間のスーパーグループとなり、リミックスにいたずらにラップを乗せたタイトル・トラックに彼らも夢中になった。それからDOOM、Liar、Major Lazerらのリ・エディットを手掛けたり、Flying Lotus、Four Tet、 Modeselektorとコラボレーションし、YorkeはEDM(※エレクトロニック・ダンス・ミュージック)を再興させる男として抜擢されることとなった。ハリウッド・フォーエバー・セメタリーで催されたハロウィン・パーティーではDaft Punkのヘルメットを借りてDJをするなどして見せ、まだそこから這い出ようとしている人もいるポップ・カルチャーの虫食い穴にノイローゼの熱狂者たちを投げ込んだ。

翌月、Radioheadのデビュー・アルバムPablo Honeyが世に出てほぼ20年が経っていた。YorkeはAmokについて明らかにした、それはAtoms for Peace-Radioheadから離れて手掛けた最初のグループによる作品だった。コレクティブ・ファンキー・ベースのFlea、パーカッションのMauro Refosco、ドラムのJoey Waronker、そして長く苦労を共にするRadioheadのプロデューサーのNigel Godrich-最初の頃メンバーは2009年にアメリカでThe Eraserを演奏するという一連のライブのために集められた。彼らの音楽性の化学反応は活動的となり、LAにあるFleaのChili Peppersの滞在地へ同行するという事態になった。Fela Kutiを聴き、地元のスタジオを3日間借りて、Yorkeがラップトップで作った試作品の仕上げに着手した。その成果はマシンに戻され、時を経てリミックスが施されAmokの最終的な9曲となった。Radioheadのメランコリーなロックの路線は巧妙にぼやかされ、ベース・ヘッドたちの今時の世代にも好まれるようなビートを重視した作品に仕上がっている。EDMの純粋主義者は年を取ったロッカーの集団が虚栄心で行なっているプロジェクトとこき下ろすかもしれない、しかし真実から目を逸らすことはできない-Amokはジャンルの垣根を超えた、現代的なソング・クラフトにおけるエキスパートたちのお手本なのだ。

当然ながらこれらが悪名高い狂暴なフロントマンに彼の音楽的プロセスについての深い理解を躊躇なく明らかにさせる実際の試みとなる希望はない。幸い、会って一分も立たない内にYorkeはDazedに今日の気分のポジティブな兆しについて話してくれた。「ツアーから戻ってきたときはいつも潰れちゃうんだ。今はちょうどそれが終わったところ。だから君たちはラッキーだよ」穏やかでリラックスした声でそう語る彼の目は生き生きとしていた。「正直、これがもし昨日だったら、君ら僕と知り合いにはなりたくなかっただろうな。それ以上だったかも。『出て行け、この野郎』とか。でも今日はだいじょうぶ。きっとうまくいくよ」…ふう。

-おかえり、Thom。時を経てオックスフォードとの関係はどのように変わりましたか?

オックスフォードはあまり変わってないよ、正直。今では富裕層なんかもいてさ、残念なことに。頭のおかしい変わり者は減ってる。心の中では、この街には自らの才能に囚われてしまってる人間が結構いると思ってる。僕の地元はみんな違った分野の研究者で溢れてて、僕も時々そこに行って盗み聞きするんだ。盗み聞きが大好きでさ。その連中の会話は普通じゃない。話題はすべて原子物理学と数学に関することなんだ。

-彼らといるのを心地よく感じますか?
そりゃもう!(笑)St Johnに英語を学びに行きたかったんだよ、みんなそうしてたからね。でもお前に合うわけないだろって言われちゃって-頭が悪過ぎたから。オックスフォード大学は僕を食い潰して吐き出しただろうし。あそこは厳しいから。狂ってるよ。特に文学部は。学生が毎年試験の前に手すりを越えて窓から飛び降りるんだからね。

-過去にRadioheadを模倣する存在について話してましたよね。あなたもAmokでEDM界の誰かからその手法を奪ったのですか?

(笑)ああ、もちろん!すっかりね!でもそういうことなんだ。それがやり方なんだよ。共有している構想に関するセオリーがここにあるとして、君はそれに同調する、もしくはしない。で、そう、それは口実になり得ると僕は思うんだよ。でもある意味それは真実でもあって。詩とか文学においてはきっと間違いなく。流行についても同じことが言えるよね。そうするもんなんだよ、お互い奪い合うけど方程式にオリジナルの何かを加えたりはしない。痛ましいことでさ、クリエイターの愛されたいっていう切望が見て取れるからね。名前を挙げるつもりはないけど、何について言ってるかわかるだろ。愛されたいという欲望なんだ、「ちきしょう、これが持っているすべてだ」っていうよりもね。

-Radioheadの始まりもそういう感じだったんですか?

何かに取り掛かるときはみんなそうだよ。他のものを真似る期間を経るものなんだ、不安だし、気に入られたいからね。 みんなそう、とにかく如何に早く、それを聴くのはあまり愉快なことじゃない、誰も聴きたがらないってことに気付けるかなんだよね。

-いつ頃そこから解放されたと思いましたか?

The Bends。それが初めてだったんだ、12曲作るために二ヶ月間、誰とも会わずにいた。それしかしなかった、John LeckieやA&Rとスタジオに入るとマネージメントが現れて「ヒット曲はできたか?」って言うだろ、で30分間みんなが動揺する時間があって、それから僕らは「この野郎!お前は出入禁止だ!」みたいなことを言って電話線を引っこ抜いちゃったんだ。それでもう心配することはなくなった。そういう選択をしたっていう高揚感と、僕らみたいに曲作りをする奴は他にいないっていう事実は解放感を与えてくれた。一度それを味わったら「あああ、よし!これだ」みたいな感じになるよ。

-でも独自の方法を見つけたと知ることは恵みではありますが、災いにもなりますよね。

うーん、それは強烈な「麻薬」になるし、次の刺激を探さなきゃなんない。そういうものを手にしてなかったらその期間を乗り越えるのは大変だよ。だから僕は働くのをやめないんだ。

-新たに夢中になれる音を追い求める自分を見出すことはありますか?Amokがエレクトロニック・ミュージックに根ざしているのはそこから来ているのですか?

聴いてるのがそれだからね。妻は「どうしてあなたはこんな真昼間で周りに誰もいないってのにダンス・ミュージックを聴いてるの?」なんて言ってくる。まさにそういうことをしてて。でも僕にとってAtomsのアルバムはそんなに踊れる感じではないな。

-‘Atoms for Peace’という言葉はThe Eraserの曲のタイトルでもあり、どちらのアルバムも類似したStanley Donwoodのアポカリプス的なアートワークが使われています。続編ということですか?

ああ、全然The Eraserみたいなのじゃないよ。でもどちらもバンド的なアルバムじゃない、バンドが演奏したような音をしてない。そういう奇妙なグレーの領域を探るミュージシャンは聞いたことがないだろうね、散々やってたLCD Soundsystemを除いては。僕らは曲の内部に入っていきたかったんだ、それが良いと感じたからね。もし僕に任されてたらどの曲も10分以上長くなってただろうな。

-あなたのプログレ・トロニカへの傾倒を抑えるのは誰ですか?

それはNigelだね、拡張されるのに耐えられないんだ。


-Godrichとの音楽の関係は初めて会ったときからどのように変化しましたか?

まったくもって同じ。まるで兄弟みたいで、喧嘩もするけど、いつも最後には仲直りするよ。時々僕はそこから離れてひとりになることを必要とする。時々彼もそこから離れてひとりになることを必要とする。時には僕も「君は正しくない、君は間違ってる」みたいになる。そしてそれが数日続くんだ。

-Atoms for Peaceプロジェクトに乗り出すにあたって、何か恐れはありましたか?
あれは本当に“ヘッド・マッシャー”(※頭を強く押し潰すもの)だったんだよ。リハの初日の間、みんなが宿題を本当に済ませていたのは明らかだった。で、僕がNigelとそこに行って、始めたらもうそれは形になってそこにあった。頭がどうかしてる。僕が本格的に他のバンドと演ったのはそれが本当に初めてで、16歳のときから、冗談じゃなく。“ヘッド・ファック”(※混乱させられて脳の機能に障害をきたすこと)だった。僕は数週間の間飛び回っててさ。それは(※バンドの曲作りの元になったのは)みんな僕が自分のラップトップで組み立てたもので、本当にワイルド(※手付かず、荒々しい、惹きつける、突飛)だと思ったんだ。

-今や多様なバック・カタログをお持ちですね。いつかRadioheadのアーカイブを遡って、すべてリミックスをすることはありますか?
できるだろうね、うん。リミックスは大好きだよ、みんなが済ませた定義付けに他のものを要求できるからね。遡ってサンプリングすることに実際、全人生をかけられるけど-でもそれはちょっと自慰行為みたいなものだよね。

-あなたの音楽が10代の若者や中年の親たち、銀行家や首相までをも魅了しているという事実はあなたにとって鬱陶しいものですか、それとも喜ばしいことですか?

銀行家が僕らの音楽を好むなんて意見を歓迎するとは言えないな。David Cameronとか。彼がKing of Limbsを気に入るなんてとても思えない。でもそれと同じくらい、だから何だ?とも思う。彼が選挙のキャンペーンに使わない限りは気にしない。もしそれをやったら訴えて散々な目に遭わせてやる。話を変えると、あるかわいらしい18歳の女の子が僕のところに来て「あああ、お母さんのためにサインをしてくれますか?わたしの小さな頃にあなたの音楽を教えてくれたんです」なんて言うだろ、そしたら僕は「わああ、そんなのって!」ってなっちゃうよ。そんなのってほんと参っちゃう。今や2つの世代(のファン)がいるなんてね。

-The Eraserの'Harrowdown Hill'は微生物学者David Kellyの自殺について書かれたものでしたね。新しい曲にも政治的な話題が含まれていますか?

David Kellyについて書いたのはとても例外的なことだよ。あれはぞっとするほどイギリス的で最悪だった。執着するとそれが最終的に歌詞となって表れることがよくあるんだ。政治的なことは書いてて楽しいことじゃない。今は悪すぎるし。コペンハーゲンのサミットに(気候問題のことで)行ったんだけど、腹が立ちっぱなしだった。すべてのことが全然間違ってたから。Obamaは中国と会談した後で思いも寄らないほど暴れ回って、ひどいもんだった。正直それにはずっと参らされてる。

-ではそれはあなたに曲を書かせるべきことではなかったということですか?

そう、でもそういう馬鹿げたことに出くわして、それが心に打撃を与えるようだったら、良くないような気がする。だって「僕らはみな被害者だ」みたいな輩にはなりたくないからね。僕はそう思わないから。気にしないように努めてるんだ。周りを見るようにするっていうときの言葉みたいに-「かまうもんか。そんなどうしようもないものなんて」

-あなたのことを「みじめで哀れなことだけを書いたり歌ったりしているミュージシャンだ」と言う人々にうんざりしていますか?

それにはうんざりしていたし、僕もそう思ってた。「ちくしょう、みんなは僕の声の中に何かを聞いて反応する、そして僕はそれについて何もできないんだ」って。Scott Walkerについても同じことが言えるだろうね。最近はそんなに重くない、かなり軽くなってる。もっとリズムだとか、曲を通じて踊るという事実の方に関心を持ってる、心を鷲づかみにするとか注意を引く中心的な存在になるっていうことよりも。(曲を)そういう風にしたくないときもある。リズムの中を漂うよう(な曲)にしたいってときだってあるんだ。

-自分の声に囚われていると感じますか?

その通りだね。今はそうでもないかもしれないけど、確かにかなり苛立たしい。もうたくさんのものをやったし、今となってはそんなに問題としてない-いつか言うべきなんだよ、「これが僕の音(声)なんだ、完璧ではないんだ」って。その署名をすることは、ある意味もっとやっていいっていう認可でもあって。解き放つ行為みたいなものなんだよ、「まあ、あれは僕の楽器であって、そこにはすごく明らかな限界がある」ということをね。でも何が良いって本当に複雑な音楽のパートを担えるし、そしたらそれにシンプルなラインを通せばいい。そうすればにわかに、厄介なことなんてちっとも目に入らなくなる。

-ご自分のイメージはどんなものですか?年を経てよりご自分の見た目に自信を持つようになりましたか、それともその逆ですか?

自分の見た目に自信を持つことなんてないよ。でもいつも衝撃を受けることや視覚的な興味は持ってる。それはくつろいでるかどうかに依る。すっかり落ち着くまでには長く時間がかかるんだ。Lotus Flowerのビデオはすごく居心地が悪かったよ。僕が全部のことをやったっていう、そんな欠陥品で。それから翌日そのラッシュ(※編集前の映像)を観せられてさ、「こんなの外に出せない」って思った。まるでパパラッチに裸か何かの自分を撮られたような映像で。もう最悪な気分だった。でもそれがリスクだとしたら、たぶん良いものなんじゃないかな。

-Lotus Flowerのビデオが今や2000万回以上YouTubeで再生されているということには驚きますか?

相当な手応えだよね。みんなが求めているのはそれだっていう。取り組んだことがそういう危機を乗り越えるとしたらすばらしいことだよね。もしちょっと下手な真似をするとしたらしばらく立ち直れないよ。

-下手な、とはどれのことですか?

そんな、言えるわけないだろ…(笑)

-お気に入りは?
やっぱりKarma Policeかな、あれを観るか一部を目にすると、あれを撮影したことがどれだけお笑い種かってことを思い出すよ。あれはすごく良かった。無駄に費やしたから特に。

-どんなことをしていたんですか?
色々と(笑)。

-あなたのビデオやあまり押し付けようとしない態度があなたの神話を創り上げたと考えますか?その神格化を進めていきたいと思いますか?

いや、その先にあるのは次に何をするかってことだけで、人を虜にすることができたかって確認することだよ。僕の中にはまだアート学生がいるんだよ、本当に。もし人々に、少なくとも衝撃を与えたり期待に応えるようなことをやろうっていうなら-それは必ずしもアートである必要はない。

-最後に本誌の表紙を飾ったとき、自分の思想について理解するとこができないといましたね。それは本当だったんですか?

本当はそうじゃなくて。かなり怯えてたんだ。説明するのは難しいな。あれはみんな僕が陥っていた気味の悪い緊張病に侵された頭にあったことで。たくさん写真を撮られるのは僕には無理なんだよ、見込まれるイメージを過剰に意識して手に負えなくなる。まったくひどい有り様なんだけど、それが自分について把握してることであり、その方法なんだよね。

-そしてまた、常に売れたい、有名になりたいと思っていたことも認めていましたね。それから17年。心境に変化はありましたか?

それは何のために有名になったかに依るよね。名声を得るために名をあげるのか、やり様によっては熱狂的なファンを排除することになるし。僕も子供の頃、それはきっと答えをくれるだろうっていつも思ってたんだよ-隙間を埋めてくれるだろうってね。そしてそれは全然相反することで。みんなにも起こることだよ。僕は長い間弄ばれていた、動物なんかみたいに。それである日、誰かからOK Computerのゴールド・プレートなんて贈られてたことにようやく気付いて、ずっとそんなことには構ってられなかったから。僕はコーンウォール(※イングランド南西端の州、荒々しい海岸で知られる)に移って、日がな一日、崖を見に行ったりスケッチブックに絵を描いたりしてた。ピアノを弾くのが許されてたからそれも。家にはそれしかなかったからね。数ヶ月そんなことをして過ごして、どうしてそんなことを始めたのか思考を遡った。記憶にあるのはとにかくそんなようなこと。家の中には何もなかったよ、ヤマハのグランド・ピアノを除いて。クラシック。(※クラシック音楽・一流、古典的・典型的・流行にとらわれない)そして最初に書いたのは'Everything in Its Right Place’だった。

-有名になる前の生活がどんなものだったか思い返すことはよくありますか?

そうなるよりも長い年月こういうことをしてるんだって今は痛感してるところ。かなりどうかしちゃってるよ。前はどうだったかなんて覚えてるかな?だと思うけど。だって僕らが(レコード会社との契約書に)サインしたのは僕が22の頃で、だから20代と30代はずっと働き通しだったんだよ。思い出せやしない。ぞっとするね。

-良い歳の取り方をしたと思いますか?

僕の好きなTom waitsの言葉は'I wish to age disgracefully' (私はみっともなく歳を取りたい)ってやつなんだけど、それを実践してる、それは僕のことなんだ。たぶんそんなに難しいことじゃないんだろうけど、みっともないままでいられたらいいな、って、もしできたらだけどさ(笑)。

-何年もの間、そうした気まぐれな人物として描かれるのはなぜだと思いますか?

かつてほど気難しくはないよ。いいことだ、だってもしそうだったら燃え尽きてしまうだろうから。それでもやはり不快な人間なんだろうけど。

-締めくくりに良いと思った言葉がありまして。あなたの友人Stanley DonwoodがAmokのアートワークにもなっているLost Angelesについて語ったことです。「未来はない。今があるだけ…誰も現在のことをあまり気にかけていないようだ」あなたが今のことでいちばん気にかけているのは何ですか?

今現在。今現在に留まろうと努めてる。それが病に陥らない方法だからね。考え過ぎちゃいけない。やり過ごすんだ。

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