magazine (8)

[日本語訳]Oyster Interview: Atoms For Peace

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Source - Oyster

Zac Bayly: こんにちは、Thom!今日の調子はどう?
Thom Yorke: いいよ、どうも。昨日の夜はあまり眠れなかったんだけど。

-どうして?
わからない…睡眠薬を飲んだりいろいろしてみたんだけど…しかも今朝は電話がどっかにいっちゃって、ホテルの中を探さなきゃなんなくってさ。いい始まり方じゃなかったんだよ。

-いや、それはいい始まりじゃなかったですね。普段はきれい好きで整理整頓してる人なんですか?
ううん。まあ、整理整頓っていうのは創造性とは全然関係ないらしいよ…でさ、僕もようやく家にスタジオを持つようになって-ほんと前はなかったんだよ、それでどんな風になってるかって言うと…ツアーから戻って、全部を繋ぎ直して動くようにしてやるよね、で音楽的にはだよ、それをやると何も起こらないみたいな感じなの。でも外し始めるとカオスが戻ってきて作業が始まるっていう。僕らの家はまったくもってカオスで、そりゃもうひどい散らかり様なんだよ。そういえばさ、最初にちょっとしたお金が手に入ったとき、「家を持つのもいいんじゃないかな?」なんて考え始めるだろ、でパンフレットをもらってきたら何にも無いミニマルな部屋のミニマルな写真が載ってて-テーブルの上にリンゴが1個置いてあったりなんかして、「こんな風に生活する奴なんているか?」とか思っちゃうよね。…で、もうアルバムは聴けたの?

-レコード・レーベルからemailでアルバムが届いたのは15分くらい前でしたね。
そりゃひどいな。

-でも僕はRadioheadの作品のことをよく知ってます。10代の頃は“There There”を一日に10回くらいは聴いてたと思いますよ。
なんだって、そりゃ変わってるな。 [Nigel Godrichが部屋に入ってくる] こいつまだアレを聴いてないんだってさ! [Godrich、笑う] 心配することないよ-もしかしたらその方がいいのかもしれない、僕ら一日中同じ質問に答えてたからさ。実はちょうどその話をしてたんだよ、日本のインタビューはおかしかったなって。違う記者たちに対してひとりの通訳しかいないってのはほんと変だよね、だって同じ奴が同じ質問してくるんだよ!おかしいけど結構気に入ってる。質問の間に考える時間が持てるから。精神の「払い戻し」だね。ビデオを録っとくべきだったな、ほんとすごいから!

-その話でニューヨーク・タイムズで読んだ草間彌生さんのインタビューを思い出しましたね。記者が席に着いて「実生活ではとてもまじめな方のようで、本当におもしろいですね。だってあなたの作品はとてもハッピーでポップじゃないですか!」みたいなことを言ったんです。そして通訳がそれを伝えると、草間さんは通訳に耳打ちしたんです。「このインタビューは終わり」って。
Thom: ああ、そう、僕も同じだね。「ほんとに?お前にはわからないんだろ?」って。ほら、僕がアート・カレッジにいてアウトサイダー・アートの思想に入れ込んでたときにはさ、学校では「うーん、役に立つことを教えてくれないな、精神病院にいるみたい」っていう感じだったな。

-大学にいたんですか?
Thom: そう。でアウトサイダー・アートにハマってた、音楽に近いところがあるなって感じてたから。アート・カレッジではがっかりするときもあったよ、創作のプロセスの多くを数値化するっていうやり方にね。スイスのローザンヌにそういうコンセプトを持って、アート・セラピーとして施設の中でアートをやってた医者がいるよ。自分を表現することが正気を保つひとつの方法だという考えからきてるんだね。ヤヨイはその代表的なことを言葉にしてたよ、「もしわたしにこれがなかったら、とっくの昔に自分を殺していたでしょう」ってね。僕もまったくもって同じで、クリエイティブな人間は大抵そうだと思う。もし表現するチャンネルを持っていなくて、物事が悪く進んだとしたら、ただ落ちていくだけだよね。中にはそういう人もいて、彼女もそうなんだ。でも僕はいつもアート・カレッジで、なぜかその考えが間違った方向に進んでる感じがしてたんだ、ちょっとだけ、何が起こっていたのか頭で考えると。自己表現によってもたらされる、その喜びや救いを失うことになる。実は僕は何年もアート・セラピストのとこに通ってたんだよ。彼女と一緒に精神病院で活動してたんだ。

-ええ、本当に?
Thom: うん、そうやって彼女と出会った。アート・カレッジに行くのはおもしろかったし、彼女と一緒に、自己表現としてのアートのアイデアが存在する場所にいることもね-完成した作品としてじゃなくても、日々解放するメソッドとして、わかるかな?
Nigel: ヤヨイは当然それを本当に意識していたね、彼女は自分が住んでいたところ(日本の精神病院)で確かめたんだから。
Thom: それってなんか僕がそのことを考えていた理由でもあって。テレビでちょっと観たんだよね、「彼女はまだ『治療』を強く求めている」、で僕は「ふん、もちろんそうに決まってるだろ!」って思った。ダミアン・ハーストにとってもそれが真実だとは言わないけど、多くのアーティストは「これが必要なんだ。これを持っていなくちゃ。選択の余地はない」みたいな感じだと思う。


-僕は、人って一般的に何かであるよりも何かをすることに意識を向けているときの方が、より幸せで真っ当でいられるような気がするんですけど、どうでしょう?
Thom: それってかなり、物事を見るときの禅の道だよね。そう、それが何であろうと携わっている時はその中に存在していなくちゃいけないんだ、そこに存在しないものに固執しちゃいけない。そりゃ僕はそこまでの「禅」信者ではないけど-たった一冊禅の本を持ってるだけだしね。ただ瞑想をしようとして、取り組もうとして読み始めたんだけども、その禅の本でほんとにおもしろいなと思ったのは創造性についてそこで如何に多く触れられているかってことで、それは自分が存在しているその瞬間に自分を解放していなければ創造的ではありえない、ということだったんだよね。頭の中に然るべきアイデアがある、でももしそのアイデアを実践するために自分が変わる用意ができていなければ、そこに到達することはできないんだよ。それじゃ気が狂っちゃうね!


※インタビューの残りは発売中のOyster #102: The Peace Issueで。

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Amokに浮かぶグリッチ的なサウンド・スケープは彼らのルーツがモダン・ベース・ミュージックから来ているからかもしれない。しかし今日のエレクトロニック・アーティストはその見返りに何を学べるのだろうか?我々は今もっとも革新的な14人のプロデューサーに、その熱い疑問に対する答えを見つけ出してもらうため一度限りのYorkeによる特別講義に参加してもらった。
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PEARSON SOUND: DJをするとこで巨大なアリーナでのライブでは難しいような観客との強力な相互作用を得られますか?
 僕が始めたのはくつろいでやるためなんだよね。Prince式で。それと外に出たかったからっていうのもあって、でも人が寄ってきてくだらないことを言ってくるだろ。機材の後ろに立ってれば話しかけてこれないからね。それがぶらつきたいときのやり方で、何か求めてくるような人らと話をしなくて済むっていう。あと音を出してみる試みでもあって、どう作用するか見てみて、その反応でミックスを変えたり。それに楽しさを見出してる。
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THE GASLAMP KILLER:  現在までにもっとも多大な影響を受けたバンドもしくはプロデューサーは?
やっぱりRichard D James(Aphex Twin)だろうな。暗く重い影を焼き払ってくれるんだ。心に大きな衝撃を受ける体験をしたのは僕がかつて大学でDJしてた頃で、いちばん興奮させられたのは常軌を逸した新しいレコードが現れたってこと。それこそ僕がDJでやってたことで。それでサウンド・システムは活気を取り戻すんだ。Aphexは僕のエレクトリック・ギターなんかじゃ手を出せなかったもうひとつの世界を切り拓いた、関わってるみんなにすごく嫉妬したよ。自分たちの星に行っちゃっててさ。僕は当時Radiohead周辺の音楽が全部嫌いだった、まったくこれっぽっちも意味を為してなくて。ブリット・ポップとかいうのも、アメリカで起こってるようなことも気に入らなかった。でもAphexは見事ですばらしかった。それに彼と僕は同じ世代でもあるんだよね、とてつもない影響を受けたよ。
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FATIMA AL QADIRI:  Amokはダンス・レコードを作りたいというあなたの欲求から、あなたの歌声を求める観客の要望へと歩み寄ったものですか?もしそうなら、インストのダンス・レコードもあり得ますか?
ああ、違うってば。そうした方がいいようにしたまでだよ。実際、インストしか手にしてないとしたら物足りなく感じると思う。インストものを作るのにも取り組んではいるけど、そこへの『窓口』みたいなものは僕の中にはないんだよね、得意分野っていうわけじゃないから。そうなのかな。わからない。正直なところ。ラップトップはそれでいっぱいだよ。それをリミックスするのはすごく難しくて、その理由はボーカルを中心に据えなければならないという弱点が僕にあるからなのか、もしくはそうでないものを思いつくことができないからなのか、どうなんだろう。突き詰めれば僕はやっぱりギター弾きなのかもしれないし、必要なのは3つのシンプルなアイディア(スリーコード)で、そこから退くべきなのかも。そうでないといいんだけど。
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GATEKEEPER: 星座は何ですか。そしてそれが音楽作りに与える影響はどんなものですか?
ヒッピー野郎め!(笑)あのね、僕は天秤座なんだよ、天秤座は二面性があるらしい、とか何とか。僕の音楽に直に影響を及ぼしてる。天秤座は周囲をすごく意識する、正しい道を進んでいる人間をみんな察知するんだ。だから一方では理想的だし、もう一方では全然理想的ではない、だって僕は決断するのがとても苦手だからね。もしそれが重要な決断だとしたら問題ないんだけど、ちょっとしたことなんかにはいつも煩わされてる。
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ACTRESS: OK Computerの養生法(※Fitter Happier)にあった『一週間に3日ジムに行く』というのを実践していますか?
1日に最低限1時間のヨガをやってる、普段は1時間半だね。大抵の日は走ったり他のこともやってる。他のものと同じくらい精神に作用することなんだよね。ツアーが始まって終わる、自分の中であの狂おしいアドレナリンが駆け巡る、そしてそれが切れて不快感を催す、そんなことを阻止するための方法なんだ。うつ病にもいいんだよ、運動する主な目的のもうひとつはそれ-落ち込むのを防いでくれる。瞑想、ヨガ、エクササイズは他のどんなものよりためになってるね。
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CARIBOU: じっとしてるのが苦手なんだ、いつも次の行動をしようとしてしまう。何もしないでいる良さはどんなものなんだろう?
僕に訊いても無駄だよ。ツアーから戻ってスタジオから一週間離れてたんだけど、そんなもんだよ。それがオフを取ったマックスの時間。何とかごまかして、実はこっそりラップトップで作業してた。何かについて新たな発見をする中毒なんだよね。それを四六時中探し回ってる、もしくはどこかへ進んでいる最中に見出すサウンドや一小節のフレーズなんかを。「よし!それだ!」ってね。違うタイプのものをやるフレーズを試したりしてる。今のところ全部で9つの良い機材を持ってて、その大部分の使い方は把握してるような感じなんだけど、でも実のところピアノの前に座って詩を書くのが楽しい。ドラム・マシンへの興味は薄れていってるけど、それをやることには結構新鮮さを感じてる、今のところはね。
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LAPALUX: 音楽を作っているときに他の音楽を聴くことはインスピレーションとなりますか、それとも妨げになりますか?
聴かなきゃいけないと思う、自分がやってるのと全然かけ離れているような音楽をね。浄化されるみたいな感じになると思う。僕らはOK Computerをやってるとき本当に過激なColtraneの曲を聴いてた、ヤク中になっておかしくなったSyd Barrettを熱狂させたようなやつ。すごく強烈で、20分間のフリー・フォーム・ジャズなんだよ-まるでシャワーを浴びてるみたい、ものすごい数の音があって。「いいよ。準備はできてる」みたいな感じ。それを聴いてめった打ちにされた。その後は形になってるものは何でもすばらしく聴こえる(笑)。
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HOLLY HERNDON: アルバムのレコーディングで共にする個人的で親密な関係から、ライブ環境で使用するより魅了的なパフォーマンス・ツールへとラップトップを変えるものは何ですか?
それについては大いに疑問をもってる。Atoms for Peaceをやろうという強い衝動に駆られた半分の理由は、何台かのマシンとステージに上がってクロックを通してそれらを操り、僕は上からただ歌うだけなんて喜ばしいと思えなかったからなんだよね。本当にいつもそれと闘ってきた。時にはそれをやるけど。でも他の人がどうその認識を改めるのか僕にはわからない。ヴィジュアルに特化したインターフェイスもあるけど、そういうのは僕にとってちょっとスター・トレックを彷彿とさせるんだよね。僕が求めることは、どんなものを作ろうが問題じゃない、ミュージシャンが演奏するためにそれを記録できるってことなんだよ。ラップトップの親密な関係というコンセプトに心を奪われたけど、それって複雑でもあって-難解になっていくことだってできるんだよ、思いついたことを誰とも共有しなくたっていいんだからね。そこにみんなある、直接マシンにアクセスすればいい。本当に複雑に際限なく変えていくことができる。だけどそれを演奏するためにミュージシャンに与えたら、鋭さや強さが加わって丸っきり違ったものになるよ。
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ARCA: お気に入りのラッパーは誰ですか?
DOOM。突き詰めるとあれは僕にとって全然ラップじゃない、詩的だよね。自由な形で詩を綴ってそれをひとつにしていく。他にああいうことができる人なんていやしないと思ってる。僕は必ずしも多くのbeatsというジャンルの音楽を好むわけじゃないんだけど、彼はいつもすばらしくて驚かされる。'Guvnor' (from JJ DOOM's Key to the Kuffs)は2012年のシングルのベストだね。あの曲はもう、神がかってる。
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PANGAEA: 自分がある種の音楽的ムーブメントの一端を担っていると感じたことはありますか、もしくはバンドやソロ・アーティストとして孤高の存在だと思いますか?
ちくしょう。ブリット・ポップの一部だと感じたことなんて一度足りともない。君が属してたあのシーンは孤立するアーティストであるよりも強力なムーブメントだ、だからそれは良いことでもある。アーティストの間で健全な競争が行われて、共存できるならそれはすばらしいことだ。僕らがバンドとして活動を始めたとき、健全な競争なんていう概念はそこになかった、ただ争って憎しみ合う、でたらめばかりのひどいもんだった。ダンス・カルチャーはそういう風にはならなさそうだね。そこにもあるとは思う、でも信じてほしいんだけど、それは僕が味わったものとは似ても似つかないものなんだよ。今ではもう物事はすごい速さで起こってる、繋がり合うことができるのはミュージシャンにとって良いことだよね。
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FALTY DL: 作曲のスランプをどう克服していますか?
そう複雑に考えないで。ペースを落として、シンプルに、ひとつのことをやるんだ。僕がスランプに陥ったときは自分の意識をまったく何もやらないことに向けなきゃならなかった。どの程度休んでいるかなんて気にしなくていい。物事はそこでただ進んでいく、だけどその結果を気にしなくなる、日々それに携わってないからね。だから実際に再開したらもっと開放する感覚になって、刺激と、何でもできる特権のような感覚を得られる。それを失ったときは、そもそもこんなものをやれるなんて幸運なことだよなって気付かされる、それも本当に簡単に。妻は僕に「絵でも描いたらどう、評価されなくていいところにしばらく力を向けてみなさいよ」って言ってくれて、それは本当にうまくいった。それに時々はこう考える、スランプに陥ったのはそれが今までやってきた中で最高のものだからなのかもしれない、でも頭の中の意識が正しい場所にないからそれを察知することができないんだってね。
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MACHINEDRUM: 慣習的な楽譜の読み方がわからないなんてすごいですね。僕も楽譜の読み書きができないからそれは刺激や励みになります。音楽の腕を上げるために耳を鍛えることは重要だと思いますか?
ニューヨークのJulliard音楽学校に入学すれば楽譜が読めないなんてことにはならないみたいだよ。それを検討するのもいいだろうけど、必須ってわけじゃない。相当な数の偉大な音楽はそれ無しでは存在し得なかっただろうけど、現代においては昔ほど必要なことじゃないよ。僕らがオーケストラと作業すると、彼らはリズムを把握するのに柔軟性がないんだと思わされる。こういう方面のリズムっていうのはクラシックで学んだ音楽家にとってはとても理解し難い異質なもので-重点がスイングしてるような構想だとか-でもジャズ・ミュージシャンやFleaのような人物とやると、彼らはそれを掴む。彼らはみんな楽譜を読めるけど、そこから始めたんじゃない、みんな耳で聴くことから始めたんだ。僕にとっては音楽を楽譜に書き起こすのは必要なことじゃない。君の作品は複雑だろ、密度が高くてとても入り組んでる。だから僕からしたらやっぱり楽譜のようにラップトップを扱ってるってことなんじゃないかなって。
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RYAT: ずっとお気に入りでいる女性アーティストは誰ですか?
2人いる-やっぱりBjorkとPolly (PJ Harvey)だね。僕の世代。まだWhite Chalkに病みつきでさ、Pollyの2007年のアルバムなんだけど。彼らのレコードは人生を変えてくれたよね、まさに彼らに関するすべてが。何故だかわからなかったけど、でも僕の感情に働きかけて共鳴したんだ。
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FLYING LOTUS: いつも気になっていたことがあるんだ。'PYRAMID SONG’は何にインスパイアされたもの?
ほんと好きなんだな!僕らはコペンハーゲンにいて、OK Computer後の最初のレコーディングを始めたときだった、全員使いものにならなくて、特に僕が。で、そこで博覧会が催されててさ、宗教的な信仰やそれに付随するもののセクションにエジプト全体の展示があって、どこでも行きたいところへ行けるようになってる小さなボートがあった。僕らは本当クソみたいなセッションをしてたんだけど、それがあった後の朝に座ってコードを弾いたらさ、僕は「それいいね」って言ってメモを取って詞を書いたんだ。それはとても早かったね。数カ月後ドラムを録ったら、まるでCharlie Mingusのレコードにある曲みたいだった。それは不思議に思うことのひとつだった、レコードを作ってるとき、やがて流れを掴むようになる、そうしたらそれは流れの一部分に過ぎなかったっていう。僕らはすべてがうまくいかない悪い時期を通過しているところだった、そしてそれは大きな突破口だった。だけどこんなに人気を得るようなシングルになるとは思いも寄らなかったね。ライブで演るとみんな熱狂するから、僕らは『本当に?』って感じだよ。
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Thom Yorke: What I've Learned

ベジタリアンになるのであればレンズ豆を心底好きにならなきゃいけない。そうでなきゃやってられない。

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すべての壁は屋根が落ちないなら(どれだって)すごい。
※All walls are great if the roof doesn't fall…Björkと一緒に歌った“I've seen it all”の歌詞に同じ言葉がある

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父に言われたのは人は気がふれてしまうこともあると覚悟しておけ、ということ。それは事実にほかならないと思い込むよう常に期待されていた。人に対して強く疑念を抱くこと、人を信用してはいけないと父は僕に教えようとしていた。子供に対してちょっと大げさ過ぎたと思う。僕はそれを直さなきゃならなかった。

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より良いことは人を信じようと試みること、誤りを暴き立てられるまで。

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歌うことを始めたのは他に歌うやつが見当たらなかったから。頼んだやつらはみんなどうしようもないバカばっかりだった。

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二万人の観衆はひとつの大きな塊みたいにも見える、だけど実際、ステージの上を歩いていって10分以内に彼らが発するものを感じ取れるかっていうのは本当に興味深いことなんだ。

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僕らが最初にR.E.M.のサポートを始めたとき、客がディナーにチキンをオーダーしてる場所でライブをしたことがあって、それはちょっと頭にきた。

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僕は長い間病院にいた、子供の頃に。左目が閉じた状態で生まれたから、まぶたが開くように尻から筋肉の組織を取って移植しなければならなかった。それで4、5回手術を受けた、すごく小さい頃から。5歳の頃には駄々をこねていたようだ。「ね、やらなきゃいけないんだよ」「やってくれたら何でも好きな物を買ってあげる、ね?何が欲しい?」なんて親が言うもんだから、僕は「赤いトラックスーツが欲しい」って言って、それを買ってもらった、上下セットで。病院に戻るのがすごくうれしかった、全身麻酔をかけられて目が覚めたら至るところで吐いてしまうってわかってても。その赤いトラックスーツが大好きだった。自分にはもう小さすぎておかしく見えるまでその赤いトラックスーツを着てた。
※赤いトラックスーツ…恐らく彼は70年代に放送されていたテレビドラマ“The Six Million Dollar Man(600万ドルの男)”を子供の頃に好んで観ていたのだろう。アメリカ空軍のパイロットで宇宙飛行士として月にも行ったことがある主人公スティーブ・オースティン大佐はテスト機の実験中に事故に遭い、命は取り留めたが左目を失明、右腕・両足不随となる重傷を負うが、改造手術を受けてサイボーグ(バイオニック・マン)となり政府の秘密情報機関のエージェントとして活躍する。赤いトラックスーツを着た姿が代表的なイメージで、当時発売されていた人形なども赤いトラックスーツを着ている。トムは過去のインタビューでも自分の目の手術について「“bionic eye”(バイオニック・アイ-サイボーグの目)みたいに」と語っている。

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敬意とはもし誰かと政治的なことで言い争いになったら、政治家をファシストだと言って切り捨てる前にちょっと振り返って、いったい彼らはどのようにしてこの完全なる無知と愚かさに屈したのか考えてみるんだ。

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学生の頃銀行にずっとクレジットカードを止められてた。しつこいチェックを止められなかったみたいで。いつも銀行と電話してた。すごく満足した日は、大きなレコードの契約にサインした後で銀行へ行って借金を全部払ってやったとき。机の向こうから出てきて握手してきた銀行家にfuck off(失せろ、クソ食らえ)って言ってやった。どんな反応だったかって?彼はそんなことには慣れきってたんじゃないかな。

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いつもATMへ行っていくら欲しいのか訊かれると「お前にできる最大限をよこせ」って言うよ。

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街の本屋に行ったら詩集を3、4冊手に入れて、コーヒー・ショップで座ってしばらくそれを読み耽る。運動の前に筋肉を解きほぐすみたいに。

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祖父は田舎にある僕らの家にやってくると、よく自転車をひとつ借りて姿を消したもんだった。暗くなってから帰ってくるんだけど、どこに行っていたのか僕らにはわからなかった。もし彼が誰かと偶然会ったら良いナイトクラブはどこにあるか尋ねただろう。そんなことを90になってもやってたよ。

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僕はもう失望なんて感じない。でも時が過ぎていくことにプレッシャーをすごく感じる。

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ある日、息子と座っていて息子の11歳の友達もいた、僕は「よし、算数をやろう。生まれてから何秒経ってるか計算してみるんだ」って言ってみた。しばらく時間がかかったけど、(答えに)辿り着いたよ。

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子供は気分を軽くして愉快でいることを教えてくれる、当時はあまり楽ではなかったから、それはとても役に立った。彼らはそのための恩恵だったよ。

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長い間に渡って人が病むのは自分の意見はもう固まっていて変えられない、自分の思考に責任を持たなければならないと思い込んでしまうせいだと思う。だけど実際は-僕が見るに-思考とは心に風が吹き抜けることだ。

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長い時間を要する、観衆が月曜の夜に寛ぐには。

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人生に空白を作るんだ。息継ぎをすること。ちゃんと休むこと。

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欲しいものをすべて手に入れること-どんなこととも関係がない。

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もし僕らが表舞台に出てヒット曲とかくだらないやつをやっていたら、物事についてまったく違ったことを感じていただろう。でも僕らは新しいことをやってる、そして実際は演奏するのがすごく難しいものもある。2万人もの人たちが僕らのかなり狂っててラジオでは流れないような音楽をやるのを観に来るっていうのは…良いことだね、うん。フェニックスでやったときEdと僕はステージを降りてお互い顔を見合わせたんだよ。あれ見たか?って。

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想像できない、20年先のことなんて、だって僕は今ここにいるんだし。

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FACT magazine - AFP interview 日本語訳

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FACT magazine - AFP interview: A NEW CAREER IN A NEW TOWN: RADIOHEAD’S THOM YORKE AND NIGEL GODRICH OPEN PANDORA’S BOX AND RUN AMOK AS ATOMS FOR PEACE

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Atoms for Peaceを組んだ発端はあの見事なライブを始めた4年前でしたね。

Thom Yorke: The Eraserをライブで演るという試みのために生まれたんだよね。

Nigel Godrich: ThomがThe Eraserの1、2年後、出し抜けに僕を呼んで、それをライブで演るというアイディアに夢中になってると言ってきたんだよ、しかもラテン・パーカッションを試し、エレクトリックの要素をリアルなものにするというね。

TY:  シーケンサーも何にも使わずにね。それを話して、僕は家に帰って仲間に加えたい人を探して、Joey [Waronker]、 君だろ [Nigel]、 Fleaとあとはパーカッション。JoeyとFleaにEメールを送ったら1時間以内に返事が返ってきた、本当にすぐに。で僕らはMauro [Refosco]と出会った。

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The Eraserのようなエレクトロニックに傾いたアルバムをライブで演奏するというのは常に手際を要することだったでしょう。そのような挑戦をしたいという要素がそこにはあったのですか?

TY: そこにあったのは…うーん、ライブに合う形式に転換するみたいなことは常にできるよ。思い描くそのままとはいかなくても、それはいつでもできる。僕のある部分では他の人たちと演りたいっていうのがあるし、他の部分ではビーツでやったらどうなるだろうっていう探究心もあったり-それは大きな部分を占めてる-最初のうちは僕もただ曲を手探りで感じていただけなんだよね。このひとつのアルバムを自分自身でやり終えて、Latitudeか何かでソロのライブを演ることになってさ(2009年)、Eraserをピアノで演るかベースで演るのか考え抜いて、それは可能だなということがわかったんだ。だからエレクトロニックvsライブっていう美学から始まったわけじゃなくて。でもみんなで集まるとすぐにそれ(シーケンスされたエレクトロニック・ミュージック)をライブで演奏できるようにするのはかなり衝撃的なことだったよ。アフロビートの成り立ちそのものでさ、そんな意図なんて全然なかったのに。

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AMOKにおいてはパーカッションの内どれくらいがフィジカルなものでどのくらいがエレクトロニックなものなのか聴き分けるのはかなり困難です。とてもパーカッシブなレコードでドラムは大抵がミックスの中で高い位置付けをされていますが、どれがどうなのか判別するのは難しいですよね。

TY: 僕らはドラムがどこで始まって終わるのか、どう合わさっていくのかあえてわかり辛くしたんだ、そうすることでライブ感の持つエネルギーを維持できる、それがエレクトロニックで作られたものであっても。だって僕らはただジャムとかをやってたわけじゃなくて、真意はそれがエレクトロニックで作られたものだっていう事実から来てるわけだから。

NG: それはJoeyやMauroと一緒に初めて演ったとき本当に明らかになったよね。The Eraserのリズムの中には本当に複雑なのがあるから、誰かがそれを楽器で表現してくれる機会を窺ってたんだ-他に類を見ないものだった。新曲の基礎は最初にAtoms for Peaceとしてライブをやったときで、そのとき僕らには演奏するものが足りないってわかったんだよね…

TY: 「何があるっけ?」「これで全部か!」みたいな感じ(笑)

NG: それがアルバムの始まりだったと言えるかな。でもそれをバンドに持っていってどう演奏するかを見なきゃならなかった、(演奏されることで)効果的なのもあれば、エレクトロニックのままの方がいいものもあったからね。そういう二つのものが同居してる二世帯住宅なんだよね-君が言うように、どれがどうなのか区別することはできないような。

TY: 僕らが最初に集まったとき僕に起こらなかった、なんか大きな可能性が大々的に放出されるみたいな感じでさ、でも新しいものを演奏することになって-新しいミュージシャンたちと、しかも僕が自分で書いたんじゃなくて2人共同で組み立てたものを、ね…良い勢いがバンド内にあった。かなり独特で、奇妙な場所に位置して、変わった行動をするっていう。大きなパンドラの箱を開けるみたいな感じだけど、それがどの方向に進むのか僕にはわからない。僕らはマシンで作られたこのイカれたリズムを持っている、そしてそれを維持できるミュージシャンがいる-問題ない-更に、それぞれがお互いを引き出すことができるんだよ。ちょっとすごいことだよね。

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値打ちのあるパンドラの箱を開けたということなら、それをどのように凝縮してアルバムに落とし込むのですか?AMOKは割と短くて、簡潔な感じのレコードですよね。

TY: うーん、これは何よりそのときの状況の、極めて最初の反応であって。僕らは3日に渡って延々とジャムをして、それが何かの形になったみたいな。それについて大げさに考えたりはしなかったんだよ、それはそう…いくらかのアイデアの宝石が集まってきた、それが一緒に時間を過ごす動機だった、作業をするっていうね。

NG: このアイデアが詰まったパンドラの箱という話は、目の前にたくさんのアイデアがあってそこから手にとって選ぶことができるっていうことを指すんだよ。僕らはパンドラの箱と言っているけど、それは楽しいものだったんだ。本当はチョコレートが詰まった箱と言った方がいいような。

お弁当箱とか?

NG: それでもいい。結局のところ、たくさんの可能性がある中で僕らは好みのものを受け入れるっていうことでね。で、それが本当に本当に楽しくて。それが根底にある。演奏するのが本当に楽しくて、しかもそれを維持できるミュージシャンがいるっていうのは本当に愉快なことなんだよね。

TY: 仕上げるのはちょっと大変だったけど-詞を書くのはね、相変わらず。

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ライブの素材を作るという意図を超えたのはいつ頃でしたか。そのときにはアルバムを作ることを意識していましたか?

NG: すぐにそれを悟ったんじゃないかな。ツアー最後の3日間のほとんどは新しいものに費やしてたし。

TY: そんで「じゃあまたな」って言って解散して、アルバムに落とし込んだ。

NG: その3日間で何が現れようとしてるのかそんなにわかってはいなかったけど、レコードを作ろうとしてるということは認識してた。可能性が潜んでいるのを目にして、それが変化する様を見た。過去を振り返るプロジェクト-(The Eraserの)素材を使って、解釈し直して、そしてまた演奏するっていうことだったわけだけど-新しいものを作るっていうことまで一緒にできたのはすばらしかったね。

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AMOKの曲のタイトルがThe Eraser ['Atoms for Peace']とRadioheadのHail to the Thief ['Judge, Jury and Executioner']双方から引用されているのを興味深いと思ったのですが。

TY: そうなの?

ええ、 ‘Myxomatosis’ の副題は ‘Judge, Jury and Executioner’ ですよね。

TY: (笑)そりゃ間違いだ。もう使ってたなんて忘れてた!僕の引き出しは狭いな。

ではわざとそうしたわけではなかったのですか?

TY: いや、純粋に忘れちゃってた。その、僕の歌詞のノートはぐちゃぐちゃだからさ。

Atoms for Peaceの歌詞を書くのはRadioheadのときと何か違いはありますか?

TY: わからない。それについては本当に考えたことがない。

NG: 立ち会ってる人間からすると、今回の歌詞を書くプロセスはより直感的だったと思うけどね。Radioheadにおいては方々を渡り歩いては時を経て展開していく傾向があって。すごく長いプロセスを経てる。今回はもう「今はこんな感じ。これでやろう」っていうのだったよね。

AMOKの歌声についての私の第一印象もそれに近いです。より自発的で、即興的な。Radioheadよりも捉えどころのないような感じがするんですけれど。

TY: おいおい、やられたな!

何が言いたいかというと、Radioheadにおいては‘There There’のような比較的落ち着いた曲でさえ-‘Paranoid Android’式の壮大で叙情的な曲でなくてもキャッチーな取っ掛かりがあるじゃないですか。AMOKでの歌声はよりスケッチ的な感じがするんです。目の前で、ほとんどリアルタイムにできたような。Actressの曲を彷彿とさせるんですよね、また違った方法で。

TY: それはこのプロジェクトの始まり方のせいじゃないかな。既にあったもので形成されて、ヴォーカルをよりリズムへ共鳴させるという意図があって、それが中心ではないっていう。ヴォーカルがビートに滑りこんでいってるとも既に言われたし。

エレクトロニックの中にかなり包み込まれていますよね。

TY: ああ、そうだね。巻き起こってる感情は曲の内部にあると思うんだけどな、表面というよりも。わかってもらえるかな?

NG: 僕はとても動的だと思ってる。違ったタイプの感情があって、違ったやり方で人を突き動かす音楽で。The Eraserと比較してみたって、とても近いものであるにもかかわらず、やっぱり曲が元になってて、今回のはよりリズムと結びついてる、それと反復、それらと動的に繋がってるんだ。違った手法なんだよ-やっぱり曲なんだけど、こういう類のリズムに曲を合わせるっていうのは…

TY: ほんと難しい。

NG: とってもパワフルなんだけどね、それができたときは。

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アルバムを作るプロジェクトになるとわかったとき、特定のゴールを見据えていましたか-エレクトロニックのリズムをミュージシャンが演奏するというアイデアから離れて-レコードへ向かうための。

TY: ちょっとした爆発だった、僕らはそれを捉えたかった。良い期間だったからね。個人的には、僕らは恵まれてると思った。でも僕は16の頃から同じバンドでずっとやってきて、そして今回のはかなり刺激的なことで-全然違う視点から来てることだったからね、美学を求めるような、でもそれはやっぱりミュージシャンと共に部屋の中で演奏するっていうことで、やっぱり僕の知ってることなんだけど。僕らは壁に開いた穴を目の前にしてて、それならもう行っちゃうしかないだろ、っていう感じだった。

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漠然とした質問ですが、AMOKにおいて、役割の内どれくらいがダンス・ミュージックになっているのでしょうか?トムは最近Boiler RoomやBenji BのRadio 1に出演し、巧みな演奏のレコードを回しました-動的なアイデアへ回帰させるものを、それはもっとも動的な形へと磨かれたダンス・ミュージックとかなりマッチするものですね。

TY: それは全部じゃないの?進められているすべてが-さっき言ったように箱だったんだよ、そしてこれはそれに対する最初の反応、だけど僕がもっと深めていきたい何かでもある…それをDJでやるとか、もっと分解するとかね。それから僕らが次にバンドで集まったとき、その席へもっと持っていきたい領域でもある。それを形作るのはベストな-ともあれ僕にとっては-ダンス・ミュージックの断片なんだよ、間違いなく。僕はそれ(ダンス・ミュージック)に対する盲目な信者じゃない、でも今の僕にとっていいと思えるものはそれなんだよね…起こってる中でいちばん興味を惹かれるのは。

それが進化して、プロジェクトがよりダンス・ミュージックと影響し合うようになる具体的な手段はあるんですか?

TY: おもしろいね…それは純粋な楽器(で演奏すること)に拘るかどうかによるんじゃないのかな。特に僕はラップトップに指図されながらステージに立つようなことは求めてない、だけどそれ以外なら受け入れられる-最初の頃Atoms for Peaceのライブをやる目的は(The Eraserの)機械から解放されることにあったからね。でもわかんないな…その二者間での対話なんだよね。僕らはその内側に位置してる感じがするっていうのが僕の把握してるすべてだな。

それは僕を夢中にさせたあるレコードを彷彿とさせてて、Charles MingusのTown Hall Concertってやつなんだけど。 とんでもない失敗作、っていうのも彼はライブ盤を作るように依頼されたんだけど、ビッグ・バンドものをやりたかった、それは作業場の実験の延長だったんだよ。彼はあまりいい状態でなくて、精神的にね、そして新しい譜面や思いつきを持ち込んで、そんなの出来っこないミュージシャンたちに延々と押し付けた。それを披露する日が来たけど、もう全然バラバラで。きっと与えられたアイデアはみんな彼らの限界を超えちゃってたんだろうね。

NG: それを期待してたらいいよ。

TY: 今のうちに楽しんでくれよ、僕の頭がおかしくなる前に。

NG: でもダンス・ミュージックについて訊かれたのは興味深いことだね。ポピュラー音楽で今いちばん活気のある分野だ。前向きで元気になるような-たとえ全部を好まないとしても。それは小宇宙を具えてるんだよ。これがエレクトロニックとアコーステックの相互作用においての違いでね、それにヴォーカルがある-とても貴重だよね。僕だってわくわくするよ、Thomの声のファンだからね。更に僕は今、完全にオリジナルのものでそれを聴くことができる-他にはめったにないっていう音と共にね。可能性は尽きない気がする。エレクトロニック・ミュージックの多くは死んでるみたいだね、歌声を失っちゃってるから。

TY: 僕からすると、何かを組み立てるときはいつも、ラップトップであろうとドラム・マシンでも何でも…常に頭の後ろで歌声が聴こえてるんだよね。ヴォーカルを思い描かずにダンス・ミュージックを最初から最後まで聴くのはほとんど無理なんだよ。僕は歌い手だからさ、そうなっちゃうんだ。Actressの曲を聴いたらヴォーカルが聞こえる-それは僕なんだ。

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私からするとAMOKは(Flying Lotusの) Until the Quiet Comesも少し彷彿とさせるんです-あのアルバムの中には辛うじて(ダンス・ミュージックの)パーカッションが存在する曲もありますが、やはりエレクトロニックかアコーステックなのか判断がつかないですよね。そしてAtomsのかなり初期の段階で彼と一緒にツアーを回ったことを思い出しました。

TY: うんまあ、僕らは彼のステージをよく観てたし、彼もそうだよ。たくさんのアイデアが飛び回ってたしね。

Atoms for Peaceで他のミュージシャンとコラボレーションするということはありますか?

NG: まあもちろんエレクトロニック・ミュージックではたくさんコラボレーションが行われてるけど、それはヴォーカルでだよね。近頃ではコラボレーションは自由に行われてて、とても良いことだけど、僕らにはもうThomがいるから、他に歌う人間を必要としないよね、例えばの話だけど。

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では最後の質問です-かなりわかりきったことですが、お二人がAtoms for Peaceに注力している間、Radioheadの状態はどうなっているのでしょう?

TY: うーん、(Radioheadは)休みに入ってる、有意義な時間を過ごせるのは本当にすばらしいことだよ、こういう終わりのないアイデアと、しかも盛りだくさんのね。彼にもどうぞ。

NG: 物事は循環するもので、新しいものに変わることや挑戦する機会をもつということは大事なことだと思う。動き続けて、新鮮な状態にしていかなくちゃ。Thomはずっとダンス・ミュージックに入れ込んでた、そして今、僕らはまったく違った方法へ切り替わる機会を手にしてるんだ。

 

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Thom YorkeはRadioheadがThe King of Limbsを引っ提げて回ったマンモス・ツアーを終え、オーストラリアから舞い戻ってきた。その3日後のことだった。オックスフォード・シティ・センター北部にある、趣のある300年もののホテル、そのロビーのテーブルに向かって座っている。すぐに「彼」だと気付かれてしまう、しかし彼はチェック・イン、チェック・アウトをする卒業生や旅行客たちの中、気取らず目立たないひとりの人間となることで他人の目を避けていた。無骨な顔を縁取る、顎に蓄えた灰色の濃い髭、長いダーク・ブラウンの髪、そしてよく知られるあの非対称の目をキョロキョロさせて。

メディアに対して壁を作っている彼が、この改装した遺跡にある暖炉の横でスパークリング・ウォーターを静かに口にしている、その姿を目にすることができるのは思いがけないことで、カウンセラーの発する言葉が取り巻く魂のない白い病室に隔離されているよりも心強く感じられる。公衆の耳に晒されている中でインタビューを進めることを心地良く感じるロック・スターはそんなに多くない、言うまでもなくそういったものから寧ろ逃れようとするだろう。Yorkeはレコードの売上なんかで評価される生き方を決して好まなかった。3000万枚の売り上げを記録するアルバムで彼の人生は変わり、歴史上もっとも影響力のあるソングライターとして称賛された。彼はどう考えているのか。答えを知りたければ、歌詞に耳を傾けるのだ。

1996年、最後に本誌の表紙を飾ったとき、それはYorkeがRadioheadの突破口を開くセカンド・アルバム、The Bendsで成功を収めているときだった。その当時、すべてをコントロールする強迫観念に囚われていることを自認する彼は「仲買人」を完全に締め出してしまった-ボイスレコーダーと2、3本のワインと共にひとりで部屋に籠り、酔っ払って腹を立てながら自分で自分にインタビューをした。そこから浮かび上がるのは興味を惹きつける、27歳の自分勝手な精神分裂病患者の姿-それは国際的に評価される苦しみにもがいていた、そして彼が振り返って見た鏡に映る自分の姿とはまったくかけ離れたものだった。一年後、OK Computerの多方面に渡る膨大な宣伝活動をさせられていたYorkeの中で、何かが「ポン」と弾けてしまった。そして深刻なうつ病に陥ってしまい、2000年のKid Aと共に再び現れた頃には彼やバンドに関わるすべてのものを信用できなくなっていた。ギターの代わりに難解なシンセとドラム・マシーンの音を取り入れるという急進的で新しいアプローチを受け入れるよう幼なじみを説得した。それはインディ・ロックのファンの多くを遠ざけることとなったが、結果としてバンドがその先も生き続けていくための鍵となった。それから彼らはAmnesiacでもその方法を用いた。そしてHail to the Thief、In Rainbows、The King of Limbs-常に自分たちの音楽の限界を再定義することを成し遂げ、文化に関与し続ける90年代に生まれた数少ないバンドのひとつという彼らの評判を不動のものとした。

44歳となった今、新しい表現の形を飽くことなく求め続けるYorkeはダンス・ミュージックを源とするデジタルの領域へと平行して足を踏み入れていった。最初にその兆候を露わにしたのは2006年のThe Eraser、彼のラップトップですべて作曲されたというアルバムだった。Kanye、 PharrellやLupe Fiascoらも短期間のスーパーグループとなり、リミックスにいたずらにラップを乗せたタイトル・トラックに彼らも夢中になった。それからDOOM、Liar、Major Lazerらのリ・エディットを手掛けたり、Flying Lotus、Four Tet、 Modeselektorとコラボレーションし、YorkeはEDM(※エレクトロニック・ダンス・ミュージック)を再興させる男として抜擢されることとなった。ハリウッド・フォーエバー・セメタリーで催されたハロウィン・パーティーではDaft Punkのヘルメットを借りてDJをするなどして見せ、まだそこから這い出ようとしている人もいるポップ・カルチャーの虫食い穴にノイローゼの熱狂者たちを投げ込んだ。

翌月、Radioheadのデビュー・アルバムPablo Honeyが世に出てほぼ20年が経っていた。YorkeはAmokについて明らかにした、それはAtoms for Peace-Radioheadから離れて手掛けた最初のグループによる作品だった。コレクティブ・ファンキー・ベースのFlea、パーカッションのMauro Refosco、ドラムのJoey Waronker、そして長く苦労を共にするRadioheadのプロデューサーのNigel Godrich-最初の頃メンバーは2009年にアメリカでThe Eraserを演奏するという一連のライブのために集められた。彼らの音楽性の化学反応は活動的となり、LAにあるFleaのChili Peppersの滞在地へ同行するという事態になった。Fela Kutiを聴き、地元のスタジオを3日間借りて、Yorkeがラップトップで作った試作品の仕上げに着手した。その成果はマシンに戻され、時を経てリミックスが施されAmokの最終的な9曲となった。Radioheadのメランコリーなロックの路線は巧妙にぼやかされ、ベース・ヘッドたちの今時の世代にも好まれるようなビートを重視した作品に仕上がっている。EDMの純粋主義者は年を取ったロッカーの集団が虚栄心で行なっているプロジェクトとこき下ろすかもしれない、しかし真実から目を逸らすことはできない-Amokはジャンルの垣根を超えた、現代的なソング・クラフトにおけるエキスパートたちのお手本なのだ。

当然ながらこれらが悪名高い狂暴なフロントマンに彼の音楽的プロセスについての深い理解を躊躇なく明らかにさせる実際の試みとなる希望はない。幸い、会って一分も立たない内にYorkeはDazedに今日の気分のポジティブな兆しについて話してくれた。「ツアーから戻ってきたときはいつも潰れちゃうんだ。今はちょうどそれが終わったところ。だから君たちはラッキーだよ」穏やかでリラックスした声でそう語る彼の目は生き生きとしていた。「正直、これがもし昨日だったら、君ら僕と知り合いにはなりたくなかっただろうな。それ以上だったかも。『出て行け、この野郎』とか。でも今日はだいじょうぶ。きっとうまくいくよ」…ふう。

-おかえり、Thom。時を経てオックスフォードとの関係はどのように変わりましたか?

オックスフォードはあまり変わってないよ、正直。今では富裕層なんかもいてさ、残念なことに。頭のおかしい変わり者は減ってる。心の中では、この街には自らの才能に囚われてしまってる人間が結構いると思ってる。僕の地元はみんな違った分野の研究者で溢れてて、僕も時々そこに行って盗み聞きするんだ。盗み聞きが大好きでさ。その連中の会話は普通じゃない。話題はすべて原子物理学と数学に関することなんだ。

-彼らといるのを心地よく感じますか?
そりゃもう!(笑)St Johnに英語を学びに行きたかったんだよ、みんなそうしてたからね。でもお前に合うわけないだろって言われちゃって-頭が悪過ぎたから。オックスフォード大学は僕を食い潰して吐き出しただろうし。あそこは厳しいから。狂ってるよ。特に文学部は。学生が毎年試験の前に手すりを越えて窓から飛び降りるんだからね。

-過去にRadioheadを模倣する存在について話してましたよね。あなたもAmokでEDM界の誰かからその手法を奪ったのですか?

(笑)ああ、もちろん!すっかりね!でもそういうことなんだ。それがやり方なんだよ。共有している構想に関するセオリーがここにあるとして、君はそれに同調する、もしくはしない。で、そう、それは口実になり得ると僕は思うんだよ。でもある意味それは真実でもあって。詩とか文学においてはきっと間違いなく。流行についても同じことが言えるよね。そうするもんなんだよ、お互い奪い合うけど方程式にオリジナルの何かを加えたりはしない。痛ましいことでさ、クリエイターの愛されたいっていう切望が見て取れるからね。名前を挙げるつもりはないけど、何について言ってるかわかるだろ。愛されたいという欲望なんだ、「ちきしょう、これが持っているすべてだ」っていうよりもね。

-Radioheadの始まりもそういう感じだったんですか?

何かに取り掛かるときはみんなそうだよ。他のものを真似る期間を経るものなんだ、不安だし、気に入られたいからね。 みんなそう、とにかく如何に早く、それを聴くのはあまり愉快なことじゃない、誰も聴きたがらないってことに気付けるかなんだよね。

-いつ頃そこから解放されたと思いましたか?

The Bends。それが初めてだったんだ、12曲作るために二ヶ月間、誰とも会わずにいた。それしかしなかった、John LeckieやA&Rとスタジオに入るとマネージメントが現れて「ヒット曲はできたか?」って言うだろ、で30分間みんなが動揺する時間があって、それから僕らは「この野郎!お前は出入禁止だ!」みたいなことを言って電話線を引っこ抜いちゃったんだ。それでもう心配することはなくなった。そういう選択をしたっていう高揚感と、僕らみたいに曲作りをする奴は他にいないっていう事実は解放感を与えてくれた。一度それを味わったら「あああ、よし!これだ」みたいな感じになるよ。

-でも独自の方法を見つけたと知ることは恵みではありますが、災いにもなりますよね。

うーん、それは強烈な「麻薬」になるし、次の刺激を探さなきゃなんない。そういうものを手にしてなかったらその期間を乗り越えるのは大変だよ。だから僕は働くのをやめないんだ。

-新たに夢中になれる音を追い求める自分を見出すことはありますか?Amokがエレクトロニック・ミュージックに根ざしているのはそこから来ているのですか?

聴いてるのがそれだからね。妻は「どうしてあなたはこんな真昼間で周りに誰もいないってのにダンス・ミュージックを聴いてるの?」なんて言ってくる。まさにそういうことをしてて。でも僕にとってAtomsのアルバムはそんなに踊れる感じではないな。

-‘Atoms for Peace’という言葉はThe Eraserの曲のタイトルでもあり、どちらのアルバムも類似したStanley Donwoodのアポカリプス的なアートワークが使われています。続編ということですか?

ああ、全然The Eraserみたいなのじゃないよ。でもどちらもバンド的なアルバムじゃない、バンドが演奏したような音をしてない。そういう奇妙なグレーの領域を探るミュージシャンは聞いたことがないだろうね、散々やってたLCD Soundsystemを除いては。僕らは曲の内部に入っていきたかったんだ、それが良いと感じたからね。もし僕に任されてたらどの曲も10分以上長くなってただろうな。

-あなたのプログレ・トロニカへの傾倒を抑えるのは誰ですか?

それはNigelだね、拡張されるのに耐えられないんだ。


-Godrichとの音楽の関係は初めて会ったときからどのように変化しましたか?

まったくもって同じ。まるで兄弟みたいで、喧嘩もするけど、いつも最後には仲直りするよ。時々僕はそこから離れてひとりになることを必要とする。時々彼もそこから離れてひとりになることを必要とする。時には僕も「君は正しくない、君は間違ってる」みたいになる。そしてそれが数日続くんだ。

-Atoms for Peaceプロジェクトに乗り出すにあたって、何か恐れはありましたか?
あれは本当に“ヘッド・マッシャー”(※頭を強く押し潰すもの)だったんだよ。リハの初日の間、みんなが宿題を本当に済ませていたのは明らかだった。で、僕がNigelとそこに行って、始めたらもうそれは形になってそこにあった。頭がどうかしてる。僕が本格的に他のバンドと演ったのはそれが本当に初めてで、16歳のときから、冗談じゃなく。“ヘッド・ファック”(※混乱させられて脳の機能に障害をきたすこと)だった。僕は数週間の間飛び回っててさ。それは(※バンドの曲作りの元になったのは)みんな僕が自分のラップトップで組み立てたもので、本当にワイルド(※手付かず、荒々しい、惹きつける、突飛)だと思ったんだ。

-今や多様なバック・カタログをお持ちですね。いつかRadioheadのアーカイブを遡って、すべてリミックスをすることはありますか?
できるだろうね、うん。リミックスは大好きだよ、みんなが済ませた定義付けに他のものを要求できるからね。遡ってサンプリングすることに実際、全人生をかけられるけど-でもそれはちょっと自慰行為みたいなものだよね。

-あなたの音楽が10代の若者や中年の親たち、銀行家や首相までをも魅了しているという事実はあなたにとって鬱陶しいものですか、それとも喜ばしいことですか?

銀行家が僕らの音楽を好むなんて意見を歓迎するとは言えないな。David Cameronとか。彼がKing of Limbsを気に入るなんてとても思えない。でもそれと同じくらい、だから何だ?とも思う。彼が選挙のキャンペーンに使わない限りは気にしない。もしそれをやったら訴えて散々な目に遭わせてやる。話を変えると、あるかわいらしい18歳の女の子が僕のところに来て「あああ、お母さんのためにサインをしてくれますか?わたしの小さな頃にあなたの音楽を教えてくれたんです」なんて言うだろ、そしたら僕は「わああ、そんなのって!」ってなっちゃうよ。そんなのってほんと参っちゃう。今や2つの世代(のファン)がいるなんてね。

-The Eraserの'Harrowdown Hill'は微生物学者David Kellyの自殺について書かれたものでしたね。新しい曲にも政治的な話題が含まれていますか?

David Kellyについて書いたのはとても例外的なことだよ。あれはぞっとするほどイギリス的で最悪だった。執着するとそれが最終的に歌詞となって表れることがよくあるんだ。政治的なことは書いてて楽しいことじゃない。今は悪すぎるし。コペンハーゲンのサミットに(気候問題のことで)行ったんだけど、腹が立ちっぱなしだった。すべてのことが全然間違ってたから。Obamaは中国と会談した後で思いも寄らないほど暴れ回って、ひどいもんだった。正直それにはずっと参らされてる。

-ではそれはあなたに曲を書かせるべきことではなかったということですか?

そう、でもそういう馬鹿げたことに出くわして、それが心に打撃を与えるようだったら、良くないような気がする。だって「僕らはみな被害者だ」みたいな輩にはなりたくないからね。僕はそう思わないから。気にしないように努めてるんだ。周りを見るようにするっていうときの言葉みたいに-「かまうもんか。そんなどうしようもないものなんて」

-あなたのことを「みじめで哀れなことだけを書いたり歌ったりしているミュージシャンだ」と言う人々にうんざりしていますか?

それにはうんざりしていたし、僕もそう思ってた。「ちくしょう、みんなは僕の声の中に何かを聞いて反応する、そして僕はそれについて何もできないんだ」って。Scott Walkerについても同じことが言えるだろうね。最近はそんなに重くない、かなり軽くなってる。もっとリズムだとか、曲を通じて踊るという事実の方に関心を持ってる、心を鷲づかみにするとか注意を引く中心的な存在になるっていうことよりも。(曲を)そういう風にしたくないときもある。リズムの中を漂うよう(な曲)にしたいってときだってあるんだ。

-自分の声に囚われていると感じますか?

その通りだね。今はそうでもないかもしれないけど、確かにかなり苛立たしい。もうたくさんのものをやったし、今となってはそんなに問題としてない-いつか言うべきなんだよ、「これが僕の音(声)なんだ、完璧ではないんだ」って。その署名をすることは、ある意味もっとやっていいっていう認可でもあって。解き放つ行為みたいなものなんだよ、「まあ、あれは僕の楽器であって、そこにはすごく明らかな限界がある」ということをね。でも何が良いって本当に複雑な音楽のパートを担えるし、そしたらそれにシンプルなラインを通せばいい。そうすればにわかに、厄介なことなんてちっとも目に入らなくなる。

-ご自分のイメージはどんなものですか?年を経てよりご自分の見た目に自信を持つようになりましたか、それともその逆ですか?

自分の見た目に自信を持つことなんてないよ。でもいつも衝撃を受けることや視覚的な興味は持ってる。それはくつろいでるかどうかに依る。すっかり落ち着くまでには長く時間がかかるんだ。Lotus Flowerのビデオはすごく居心地が悪かったよ。僕が全部のことをやったっていう、そんな欠陥品で。それから翌日そのラッシュ(※編集前の映像)を観せられてさ、「こんなの外に出せない」って思った。まるでパパラッチに裸か何かの自分を撮られたような映像で。もう最悪な気分だった。でもそれがリスクだとしたら、たぶん良いものなんじゃないかな。

-Lotus Flowerのビデオが今や2000万回以上YouTubeで再生されているということには驚きますか?

相当な手応えだよね。みんなが求めているのはそれだっていう。取り組んだことがそういう危機を乗り越えるとしたらすばらしいことだよね。もしちょっと下手な真似をするとしたらしばらく立ち直れないよ。

-下手な、とはどれのことですか?

そんな、言えるわけないだろ…(笑)

-お気に入りは?
やっぱりKarma Policeかな、あれを観るか一部を目にすると、あれを撮影したことがどれだけお笑い種かってことを思い出すよ。あれはすごく良かった。無駄に費やしたから特に。

-どんなことをしていたんですか?
色々と(笑)。

-あなたのビデオやあまり押し付けようとしない態度があなたの神話を創り上げたと考えますか?その神格化を進めていきたいと思いますか?

いや、その先にあるのは次に何をするかってことだけで、人を虜にすることができたかって確認することだよ。僕の中にはまだアート学生がいるんだよ、本当に。もし人々に、少なくとも衝撃を与えたり期待に応えるようなことをやろうっていうなら-それは必ずしもアートである必要はない。

-最後に本誌の表紙を飾ったとき、自分の思想について理解するとこができないといましたね。それは本当だったんですか?

本当はそうじゃなくて。かなり怯えてたんだ。説明するのは難しいな。あれはみんな僕が陥っていた気味の悪い緊張病に侵された頭にあったことで。たくさん写真を撮られるのは僕には無理なんだよ、見込まれるイメージを過剰に意識して手に負えなくなる。まったくひどい有り様なんだけど、それが自分について把握してることであり、その方法なんだよね。

-そしてまた、常に売れたい、有名になりたいと思っていたことも認めていましたね。それから17年。心境に変化はありましたか?

それは何のために有名になったかに依るよね。名声を得るために名をあげるのか、やり様によっては熱狂的なファンを排除することになるし。僕も子供の頃、それはきっと答えをくれるだろうっていつも思ってたんだよ-隙間を埋めてくれるだろうってね。そしてそれは全然相反することで。みんなにも起こることだよ。僕は長い間弄ばれていた、動物なんかみたいに。それである日、誰かからOK Computerのゴールド・プレートなんて贈られてたことにようやく気付いて、ずっとそんなことには構ってられなかったから。僕はコーンウォール(※イングランド南西端の州、荒々しい海岸で知られる)に移って、日がな一日、崖を見に行ったりスケッチブックに絵を描いたりしてた。ピアノを弾くのが許されてたからそれも。家にはそれしかなかったからね。数ヶ月そんなことをして過ごして、どうしてそんなことを始めたのか思考を遡った。記憶にあるのはとにかくそんなようなこと。家の中には何もなかったよ、ヤマハのグランド・ピアノを除いて。クラシック。(※クラシック音楽・一流、古典的・典型的・流行にとらわれない)そして最初に書いたのは'Everything in Its Right Place’だった。

-有名になる前の生活がどんなものだったか思い返すことはよくありますか?

そうなるよりも長い年月こういうことをしてるんだって今は痛感してるところ。かなりどうかしちゃってるよ。前はどうだったかなんて覚えてるかな?だと思うけど。だって僕らが(レコード会社との契約書に)サインしたのは僕が22の頃で、だから20代と30代はずっと働き通しだったんだよ。思い出せやしない。ぞっとするね。

-良い歳の取り方をしたと思いますか?

僕の好きなTom waitsの言葉は'I wish to age disgracefully' (私はみっともなく歳を取りたい)ってやつなんだけど、それを実践してる、それは僕のことなんだ。たぶんそんなに難しいことじゃないんだろうけど、みっともないままでいられたらいいな、って、もしできたらだけどさ(笑)。

-何年もの間、そうした気まぐれな人物として描かれるのはなぜだと思いますか?

かつてほど気難しくはないよ。いいことだ、だってもしそうだったら燃え尽きてしまうだろうから。それでもやはり不快な人間なんだろうけど。

-締めくくりに良いと思った言葉がありまして。あなたの友人Stanley DonwoodがAmokのアートワークにもなっているLost Angelesについて語ったことです。「未来はない。今があるだけ…誰も現在のことをあまり気にかけていないようだ」あなたが今のことでいちばん気にかけているのは何ですか?

今現在。今現在に留まろうと努めてる。それが病に陥らない方法だからね。考え過ぎちゃいけない。やり過ごすんだ。

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He was the greatest writer of his generation - and also its most tormented. In the wake of his tragic suicide, his friends and family reveal the lifelong struggle of a beautiful mind.

Having only known of David Foster Wallace for being the genius behind Infinite Jest, I finally had the opportunity to see the human side of a very tormented soul.-SSAHe was six-feet-two, and on a good day he weighed 200 pounds. He wore granny glasses with a head scarf, points knotted at the back, a look that was both pirate-like and housewife-ish. He always wore his hair long. He had dark eyes, soft voice, caveman chin, a lovely, peak-lipped mouth that was his best feature. He walked with an ex-athlete's saunter, a roll from the heels, as if anything physical was a pleasure. David Foster Wallace worked surprising turns on nearly everything: novels, journalism, vacation. His life was an information hunt, collecting hows and whys. "I received 500,000 discrete bits of information today," he once said, "of which maybe 25 are important. My job is to make some sense of it." He wanted to write "stuff about what it feels like to live. Instead of being a relief from what it feels like to live." Readers curled up in the nooks and clearings of his style: his comedy, his brilliance, his humaneness.His life was a map that ends at the wrong destination. Wallace was an A student through high school, he played football, he played tennis, he wrote a philosophy thesis and a novel before he graduated from Amherst, he went to writing school, published the novel, made a city of squalling, bruising, kneecapping editors and writers fall moony-eyed in love with him. He published a thousand-page novel, received the only award you get in the nation for being a genius, wrote essays providing the best feel anywhere of what it means to be alive in the contemporary world, accepted a special chair at California's Pomona College to teach writing, married, published another book and, last month, hanged himself at age 46."The one thing that really should be said about David Foster Wallace is that this was a once-in-a-century talent," says his friend and former editor Colin Harrison. "We may never see a guy like this again in our lifetimes — that I will shout out. He was like a comet flying by at ground level."His 1996 novel, Infinite Jest, was Bible-size and spawned books of interpretation and commentary, like Understanding David Foster Wallace — a book his friends might have tried to write and would have lined up to buy. He was clinically depressed for decades, information he limited to family and his closest friends. "I don't think that he ever lost the feeling that there was something shameful about this," his father says. "His instinct was to hide it."After he died on September 12th, readers crowded the Web with tributes to his generosity, his intelligence. "But he wasn't Saint Dave," says Jonathan Franzen, Wallace's best friend and the author of The Corrections. "This is the paradox of Dave: The closer you get, the darker the picture, but the more genuinely lovable he was. It was only when you knew him better that you had a true appreciation of what a heroic struggle it was for him not merely to get along in the world, but to produce wonderful writing."David grew up in Champaign, Illinois. His father, Jim, taught philosophy at the University of Illinois. His mother, Sally, taught English at a local community college. It was an academic household — poised, considerate — language games in the car, the rooms tidy, the bookcase the hero. "I have these weird early memories," Wallace told me during a series of interviews in 1996. "I remember my parents reading Ulysses out loud to each other in bed, holding hands and both lovin' something really fiercely." Sally hated to get angry — it took her days to recover from a shout. So the family developed a sort of interoffice conflict mail. When his mother had something stern to say, she'd write it up in a letter. When David wanted something badly — raised allowance, more liberal bedtime — he'd slide a letter under his parents' door.David was one of those eerie, perfect combinations of two parents' skills. The titles of his father's books — Ethical Norms, Particular Cases — have the sound of Wallace short-story titles. The tone of his mother's speaking voice contains echoes of Wallace's writing voice: Her textbook, Practically Painless English, sounds like a Wallace joke. She uses phrases like "perishing hot" for very hot, "snoof" for talking in your sleep, "heave your skeleton" for go to bed. "David and I both owe a huge debt to my mother," says his sister, Amy, two years younger. "She has a way of talking that I've never heard anywhere else."David was, from an early age, "very fragile," as he put it. He loved TV, and would get incredibly excited watching a program like Batman or The Wild Wild West. (His parents rationed the "rough" shows. One per week.) David could memorize whole shows of dialogue and predict, like a kind of plot weatherman, when the story was going to turn, where characters would end up. No one saw or treated him as a genius, but at age 14, when he asked what his father did, Jim sat David down and walked him through a Socratic dialogue. "I was astonished by how sophisticated his understanding was," Jim says. "At that point, I figured out that he really, really was extraordinarily bright."David was a big-built kid; he played football — quarterback — until he was 12 or 13, and would always speak like an athlete, the disappearing G's, "wudn't," "dudn't" and "idn't" and "sumpin'." "The big thing I was when I was little was a really serious jock," Wallace told me. "I mean, I had no artistic ambition. I played citywide football. And I was really good. Then I got to junior high, and there were two guys in the city who were better quarterbacks than me. And people started hitting each other a lot harder, and I discovered that I didn't really love to hit people. That was a huge disappointment." After his first day of football practice at Urbana High School, he came home and chucked it. He offered two explanations to his parents: They expected him to practice every day, and the coaches did too much cursing.He had also picked up a racket. "I discovered tennis on my own," Wallace said, "taking public-park lessons. For five years, I was seriously gonna be a pro tennis player. I didn't look that good, but I was almost impossible to beat. I know that sounds arrogant. It's true." On court, he was a bit of a hustler: Before a match, he'd tell his opponent, "Thank you for being here, but you're just going to cream me."By the time he was 14, he felt he could have made nationals. "Really be in the junior show. But just at the point it became important to me, I began to choke. The more scared you get, the worse you play." Plus it was the Seventies — Pink Floyd, bongs. "I started to smoke a lot of pot when I was 15 or 16, and it's hard to train." He laughed. "You don't have that much energy."It was around this time that the Wallaces noticed something strange about David. He would voice surprising requests, like wanting to paint his bedroom black. He was constantly angry at his sister. When he was 16, he refused to go to her birthday party. "Why would I want to celebrate her birthday?" he told his parents."David began to have anxiety attacks in high school," his father recalls. "I noticed the symptoms, but I was just so unsophisticated about these matters. The depression seemed to take the form of an evil spirit that just haunted David." Sally came to call it the "black hole with teeth." David withdrew. "He spent a lot of time throwing up junior year," his sister remembers. One wall of his bedroom was lined with cork, for magazine photos of tennis stars. David pinned an article about Kafka to the wall, with the headline THE DISEASE WAS LIFE ITSELF."I hated seeing those words," his sister tells me, and starts to cry. "They seemed to sum up his existence. We couldn't understand why he was acting the way he was, and so of course my parents were exasperated, lovingly exasperated."David graduated high school with perfect grades. Whatever his personal hurricane was, it had scattered trees and moved on. He decided to go to Amherst, which is where his father had gone, too. His parents told him he would enjoy the Berkshire autumn. Instead, he missed home — the farms and flat horizons, roads stretching contentedly nowhere. "It's fall," David wrote back. "The mountains are pretty, but the landscape isn't beautiful the way Illinois is."Wallace had lugged his bags into Amherst the fall of 1980 — Reagan coming in, the Seventies capsized, preppies everywhere. He brought a suit to campus. "It was kind of a Sears suit, with this Scotch-plaid tie," says his college roommate and close friend Mark Costello, who went on to become a successful novelist himself. "Guys who went to Amherst, who came from five prep schools, they always dress a notch down. No one's bringing a suit. That was just the Wallace sense that going East is a big deal, and you have to not embarrass us. My first impression was that he was really very out of step."Costello came from working-class Massachusetts, seven kids, Irish-Catholic household. He and Wallace connected. "Neither of us fit into the Gatsby-ite mold," Costello says. At Amherst David perfected the style he would wear for the rest of his life: turtleneck, hoodie, big basketball shoes. The look of parking-lot kids who in Illinois were called Dirt Bombs. "A slightly tough, slightly waste-product-y, tennis-playing persona," Costello says. Wallace was also amazingly fast and good company, even just on a walk across campus. "I'd always wanted to be an impressionist," Wallace said, "but I just didn't have an agile enough vocal and facial register to do it." Crossing a green, it was The Dave Show. He would recount how people walked, talked, held their heads, pictured their lives. "Just very connected to people," Costello recalls. "Dave had this ability to be inside someone else's skin."Observing people from afar, of course, can be a way of avoiding them up close. "I was a complete just total banzai weenie studier in college," Wallace recalled. "I was really just scared of people. For instance, I would brave the TV pit — the central TV room — to watch Hill Street Blues, 'cause that was a really important show to me."One afternoon, April of sophomore year, Costello came back to the dorm they shared and found Wallace seated in his chair. Desk clean, bags packed, even his typewriter, which weighed as much as the clothes put together."Dave, what's going on?" Costello asked."I'm sorry, I'm so sorry," Wallace said. "I know I'm really screwing you."He was pulling out of college. Costello drove him to the airport. "He wasn't able to talk about it," Costello recalls. "He was crying, he was mortified. Panicky. He couldn't control his thoughts. It was mental incontinence, the equivalent of wetting his pants.""I wasn't very happy there," Wallace told me later. "I felt kind of inadequate. There was a lot of stuff I wanted to read that wasn't part of any class. And Mom and Dad were just totally cool."Wallace went home to hospitalization, explanations to his parents, a job. For a while, he drove a school bus. "Here he was, a guy who was really shaky, kind of Holden Caulfield, driving a school bus through lightning storms," Costello recalls. "He wrote me a letter all outraged, about the poor screening procedures for school-bus drivers in central Illinois."Wallace would visit his dad's philosophy classes. "The classes would turn into a dialogue between David and me," his father remembers. "The students would just sit looking around, 'Who is this guy?' " Wallace devoured novels — "pretty much everything I've read was read during that year." He also told his parents how he'd felt at school. "He would talk about just being very sad, and lonely," Sally says. "It didn't have anything to do with being loved. He just was very lonely inside himself."He returned to Amherst in the fall, to room with Costello, shaky but hardened. "Certain things had been destroyed in his head," Costello says. "In the first half of his Amherst career, he was trying to be a regular person. He was on the debate team, the sort of guy who knows he's going to be a success." Wallace had talked about going into politics; Costello recalls him joking, "No one is going to vote for somebody who's been in a nuthouse." Having his life fall apart narrowed his sense of what his options were — and the possibilities that were left became more real to him. In a letter to Costello, he wrote, "I want to write books that people will read 100 years from now."Back at school junior year, he never talked much about his breakdown. "It was embarrassing and personal," Costello says. "A zone of no jokes." Wallace regarded it as a failure, something he should have been able to control. He routinized his life. He'd be the first tray at the dining hall for supper, he'd eat, drink coffee dipped with tea bags, library study till 11, head back to the room, turn on Hawaii Five-O, then a midnight gulp from a scotch bottle. When he couldn't turn his mind off, he'd say, "You know what? I think this is a two-shot night," slam another and sleep.In 1984, Costello left for Yale Law School; Wallace was alone senior year. He double-majored — English and philosophy, which meant two big writing projects. In philosophy, he took on modal logic. "It looked really hard, and I was really scared about it," he said. "So I thought I'd do this kind of jaunty, hundred-page novel." He wrote it in five months, and it clocked in at 700 pages. He called it The Broom of the System.Wallace published stories in the Amherst literary magazine. One was about depression and a tricyclic anti-anxiety medication he had been on for two months. The medication "made me feel like I was stoned and in hell," he told me. The story dealt with the in-hell parts:You are the sickness yourself.... You realize all this...when you look at the black hole and it's wearing your face. That's when the Bad Thing just absolutely eats you up, or rather when you just eat yourself up. When you kill yourself. All this business about people committing suicide when they're "severely depressed;" we say, "Holy cow, we must do something to stop them from killing themselves!" That's wrong. Because all these people have, you see, by this time already killed themselves, where it really counts.... When they "commit suicide," they're just being orderly.It wasn't just writing the novel that made Wallace realize his future would lie in fiction. He also helped out friends by writing their papers. In a comic book, this would be his origin story, the part where he's bombarded with gamma rays, bitten by the spider. "I remember realizing at the time, 'Man, I'm really good at this. I'm a weird kind of forger. I can sound kind of like anybody.' "Grad school was next. Philosophy would be an obvious choice. "My dad would have limbs removed without anesthetic before ever pushing his kids about anything," Wallace said. "But I knew I was gonna have to go to grad school. I applied to these English programs instead, and I didn't tell anybody. Writing The Broom of the System, I felt like I was using 97 percent of me, whereas philosophy was using 50 percent."After Amherst, Wallace went to the University of Arizona for an MFA. It was where he picked up the bandanna: "I started wearing them in Tucson because it was a hundred degrees all the time, and I would perspire so much I would drip on the page." The woman he was dating thought the bandanna was a wise move. "She was like a Sixties lady, a Sufi Muslim. She said there were various chakras, and one of the big ones she called the spout hole, at the very top of your cranium. Then I began thinking about the phrase 'Keeping your head together.' It makes me feel kind of creepy that people view it as a trademark or something — it's more a recognition of a weakness, which is that I'm just kind of worried that my head's gonna explode."Arizona was a strange experience: the first classrooms where people weren't happy to see him. He wanted to write the way he wanted to write — funny and overstuffed and nonlinear and strange. The teachers were all "hardass realists." That was the first problem. Problem two was Wallace. "I think I was kind of a prick," he said. "I was just unteachable. I had that look — 'If there were any justice, I'd be teaching this class' — that makes you want to slap a student." One of his stories, "Here and There," went on to win a 1989 O. Henry Prize after it was published in a literary magazine. When he turned it in to his professor, he received a chilly note back: "I hope this isn't representative of the work you're hoping to do for us. We'd hate to lose you.""What I hated was how disingenuous it was," Wallace recalled. "'We'd hate to lose you.' You know, if you're gonna threaten, say that."Wallace sent his thesis project out to agents. He got a lot of letters back: "Best of luck in your janitorial career." Bonnie Nadell was 25, working a first job at San Francisco's Frederick Hill Agency. She opened a letter from Wallace, read a chapter from his book. "I loved it so much," Nadell says. It turned out there was a writer named David Rains Wallace. Hill and Nadell agreed that David should insert his mother's maiden name, which is how he became David Foster Wallace. She remained his agent for the rest of his life. "I have this thing, the nearest Jewish mother, I will simply put my arms around her skirt and just attach myself," Wallace said. "I don't know what it means. Maybe sort of WASP deprivation."Viking won the auction for the novel, "with something like a handful of trading stamps." Word spread; professors turned nice. "I went from borderline ready-to-get-kicked-out to all these tight-smiled guys being, 'Glad to see you, we're proud of you, you'll have to come over for dinner.' It was so delicious: I felt kind of embarrassed for them, they didn't even have integrity about their hatred."Wallace went to New York to meet his editor, Gerry Howard, wearing a U2 T-shirt. "He seemed like a very young 24," Howard says. The shirt impressed him. "U2 wasn't really huge then. And there's a hypersincerity to U2, which I think David was in tune with — or that he really wanted to be sincere, even though his brain kept turning him in the direction of the ironic." Wallace kept calling Howard — who was only 36 — "Mr. Howard," never "Gerry." It would become his business style: a kind of mock formality. People often suspected it was a put-on. What it was was Midwestern politeness, the burnout in the parking lot still nodding "sir" to the vice principal. "There was kind of this hum of superintelligence behind the 'aw, shucks' manner," Howard recalls.The Broom of the System was published in January of 1987, Wallace's second and last year at Arizona. The title referred to something his mother's grandmother used to say, as in, "Here, Sally, have an apple, it's the broom of the system." "I wasn't aware David had picked up on that," his mother says. "I was thrilled that a family expression became the title of his book."The novel hit. "Everything you could hope for," Howard says. "Critics praised it, it sold quite well, and David was off to the races."His first brush with fame was a kind of gateway experience. Wallace would open The Wall Street Journal, see his face transmuted into a dot-cartoon. "Some article like 'Hotshot's Weird New Novel,' " he said. "I'd feel really good, really cool, for exactly 10 seconds. Probably not unlike a crack high, you know? I was living an incredibly American life: 'Boy, if I could just achieve X, Y and Z, everything would be OK.' " Howard bought Wallace's second book, Girl With Curious Hair, a collection of the stories he was finishing up at Arizona. But something in Wallace worried him. "I have never encountered a mind like David's," he says. "It functioned at such an amazingly high level, he clearly lived in a hyperalert state. But on the other hand, I felt that David's emotional life lagged far behind his mental life. And I think he could get lost in the gap between the two."Wallace was already drifting into the gap. He won a Whiting Writers' Award — stood on a stage with Eudora Welty — graduated Arizona, went to an artists' colony, met famous writers, knew the famous writers were seeing his name in more magazines ("absolutely exhilarating and really scary at the same time"), finished the stories. And then he was out of ideas. He tried to write in a cabin in Tucson for a while, then returned home to write — Mom and Dad doing the grocery shopping. He accepted a one-year slot teaching philosophy at Amherst, which was strange: Sophomores he had known were now his students. In the acknowledgments for the book he was completing, he thanks "The Mr. and Mrs. Wallace Fund for Aimless Children."He was balled up, tied up. "I started hating everything I did," he said. "Worse than stuff I'd done in college. Hopelessly confused, unbelievably bad. I was really in a panic, I didn't think I was going to be able to write anymore. And I got this idea: I'd flourished in an academic environment — my first two books had sort of been written under professors." He applied to graduate programs in philosophy, thinking he could write fiction in his spare time. Harvard offered a full scholarship. The last thing he needed to reproduce his college years was to reactivate Mark Costello."So he comes up with this whole cockamamie plan," Costello recalls. "He says, 'OK, you're going to go back to Boston, practice law, and I'm going to go to Harvard. We'll live together — it'll be just like the house we had at Amherst.' It all ended up being a train wreck."They found an apartment in Somerville. Student ghetto: rickety buildings, outdoor staircases. Costello would come home with his briefcase, click up the back stairs, David would call out, "Hi, honey, how was your day?" But Wallace wasn't writing fiction. He had thought course work would be a sideline; but professors expected actual work.Not writing was the kind of symptom that presents a problem of its own. "He could get himself into places where he was pretty helpless," Costello says. "Basically it was the same symptoms all along: this incredible sense of inadequacy, panic. He once said to me that he wanted to write to shut up the babble in his head. He said when you're writing well, you establish a voice in your head, and it shuts up the other voices. The ones that are saying, 'You're not good enough, you're a fraud.' ""Harvard was just unbelievably bleak," Wallace said. It became a substance marathon: drinking, parties, drugs. "I didn't want to feel it," he said. "It was the only time in my life that I'd gone to bars, picked up women I didn't know." Then for weeks, he would quit drinking, start mornings with a 10-mile run. "You know, this kind of very American sports training — I will fix this by taking radical action." Schwarzenegger voice: "If there's a problem, I will train myself out of it. I will work harder."Various delays were holding up the publication of his short-story collection Girl With Curious Hair. He started to feel spooked. "I'm this genius writer," he remembered. "Everything I do's gotta be ingenious, blah, blah, blah, blah." The five-year clock was ticking again. He'd played football for five years. Then he'd played high-level tennis for five years. Now he'd been writing for five years. "What I saw was, 'Jesus, it's the same thing all over again.' I'd started late, showed tremendous promise — and the minute I felt the implications of that promise, it caved in. Because see, by this time, my ego's all invested in the writing. It's the only thing I've gotten food pellets from the universe for. So I feel trapped: 'Uh-oh, my five years is up, I've gotta move on.' But I didn't want to move on."Costello watched while Wallace slipped into a depressive crisis. "He was hanging out with women who were pretty heavily into drugs — that was kind of alluring to Dave — skanking around Somerville, drinking himself blotto."It was the worst period Wallace had ever gone through. "It may have been what in the old days was called a spiritual crisis," he said. "It was just feeling as though every axiom of your life turned out to be false. And there was nothing, and you were nothing — it was all a delusion. But you were better than everyone else because you saw that it was a delusion, and yet you were worse because you couldn't function."By November, the anxieties had become locked and fixed. "I got really worried I was going to kill myself. And I knew, that if anybody was fated to fuck up a suicide attempt, it was me." He walked across campus to Health Services and told a psychiatrist, "Look, there's this issue. I don't feel real safe.""It was a big deal for me, because I was so embarrassed," Wallace said. "But it was the first time I ever treated myself like I was worth something."By making his announcement, Wallace had activated a protocol: Police were notified, he had to withdraw from school. He was sent to McLean, which, as psychiatric hospitals go, is pedigreed: Robert Lowell, Sylvia Plath, Anne Sexton all put in residences there; it's the setting for the memoir Girl, Interrupted. Wallace spent his first day on suicide watch. Locked ward, pink room, no furniture, drain in the floor, observation slot in the door. "When that happens to you," David said, smiling, "you get unprecedentedly willing to examine other alternatives for how to live."Wallace spent eight days in McLean. He was diagnosed as a clinical depressive and was prescribed a drug, called Nardil, developed in the 1950s. He would have to take it from then on. "We had a brief, maybe three-minute audience with the psychopharmacologist," his mother says. Wallace would have to quit drinking, and there was a long list of foods — certain cheeses, pickles, cured meats — he would have to stay away from.He started to clean up. He found a way to get sober, worked very hard at it, and wouldn't drink for the rest of his life. Girl With Curious Hair finally appeared in 1989. Wallace gave a reading in Cambridge; 13 people showed up, including a schizophrenic woman who shrieked all the way through his performance. "The book's coming out seemed like a kind of shrill, jagged laugh from the universe, this thing sort of lingering behind me like a really nasty fart."What followed was a phased, deliberate return to the world. He worked as a security guard, morning shift, at Lotus Software. Polyester uniform, service baton, walking the corridors. "I liked it because I didn't have to think," he said. "Then I quit for the incredibly brave reason that I got tired of getting up so early in the morning."Next, he worked at a health club in Auburndale, Massachusetts. "Very chichi," he said. "They called me something other than a towel boy, but I was in effect a towel boy. I'm sitting there, and who should walk in to get their towel but Michael Ryan. Now, Michael Ryan had received a Whiting Writers' Award the same year I had. So I see this guy that I'd been up on the fucking rostrum with, having Eudora Welty give us this prize. It's two years later — it's the only time I've literally dived under something. He came in, and I pretended not very subtly to slip, and lay facedown, and didn't respond. I left that day, and I didn't go back."He wrote Bonnie Nadell a letter; he was done with writing. That wasn't exactly her first concern. "I was worried he wasn't going to survive," she says. He filled in Howard, too. "I contemplated the circumstance that the best young writer in America was handing out towels in a health club," Howard says. "How fucking sad."Wallace met Jonathan Franzen in the most natural way for an author: as a fan. He sent Franzen a nice letter about his first novel, The Twenty-Seventh City. Franzen wrote back, they arranged to meet in Cambridge. "He just flaked," Franzen recalls. "He didn't show up. That was a fairly substance-filled period of his life."By April of 1992, both were ready for a change. They loaded Franzen's car and headed for Syracuse to scout apartments. Franzen needed "somewhere to relocate with my wife where we could both afford to live and not have anyone tell us how screwed up our marriage was." Wallace's need was simpler: cheap space, for writing. He had been researching for months, haunting rehab facilities and halfway houses, taking quiet note of voices and stories, people who had fallen into the gaps like him. "I got very assertive research- and finagle-wise," he said. "I spent hundreds of hours at three halfway houses. It turned out you could just sit in the living room — nobody is as gregarious as somebody who has recently stopped using drugs."He and Franzen talked a lot about what writing should be for. "We had this feeling that fiction ought to be good for something," Franzen says. "Basically, we decided it was to combat loneliness." They would talk about lots of Wallace's ideas, which could abruptly sharpen into self-criticism. "I remember this being a frequent topic of conversation," Franzen says, "his notion of not having an authentic self. Of being just quick enough to construct a pleasing self for whomever he was talking to. I see now he wasn't just being funny — there was something genuinely compromised in David. At the time I thought, 'Wow, he's even more self-conscious than I am.' "Wallace spent a year writing in Syracuse. "I lived in an apartment that was seriously the size of the foyer of an average house. I really liked it. There were so many books, you couldn't move around. When I'd want to write, I'd have to put all the stuff from the desk on the bed, and when I'd want to sleep, I would have to put all the stuff on the desk."Wallace worked longhand, pages piling up. "You look at the clock and seven hours have passed and your hand is cramped," Wallace said. He'd have pens he considered hot — cheap Bic ballpoints, like batters have bats that are hot. A pen that was hot he called the orgasm pen.In the summer of 1993, he took an academic job 50 miles from his parents, at Illinois State University at Normal. The book was three-quarters done. Based on the first unruly stack of pages, Nadell had been able to sell it to Little, Brown. He had put his whole life into it — tennis, and depression, and stoner afternoons, and the precipice of rehab, and all the hours spent with Amy watching TV. The plot motor is a movie called Infinite Jest, so soothing and perfect it's impossible to switch off: You watch until you sink into your chair, spill your bladder, starve, die. "If the book's about anything," he said, "it's about the question of why am I watching so much shit? It's not about the shit. It's about me: Why am I doing it? The original title was A Failed Entertainment, and the book is structured as an entertainment that doesn't work" — characters developing and scattering, chapters disordered — "because what entertainment ultimately leads to is 'Infinite Jest,' that's the star it's steering by."Wallace held classes in his house, students nudging aside books like Compendium of Drug Therapy and The Emergence of the French Art Film, making jokes about Mount Manuscript, David's pile of novel. He had finished and collected the three years of drafts, and finally sat down and typed the whole thing. Wallace didn't really type; he input the giant thing twice, with one finger. "But a really fast finger."It came to almost 1,700 pages. "I was just terrified how long it would end up being," he said. Wallace told his editor it would be a good beach book, in the sense that people could use it for shade.It can take a year to edit a book, re-edit it, print it, publicize it, ship it, the writer all the time checking his watch. In the meantime, Wallace turned to nonfiction. Two pieces, published in Harper's, would become some of the most famous pieces of journalism of the past decade and a half.Colin Harrison, Wallace's editor at Harper's, had the idea to outfit him with a notebook and push him into perfectly American places — the Illinois State Fair, a Caribbean cruise. It would soak up the side of Wallace that was always on, always measuring himself. "There would be Dave the mimic, Dave the people-watcher," Costello says. "Asking him to actually report could get stressful and weird and complicated. Colin had this stroke of genius about what to do with David. It was a much simpler solution than anyone ever thought."In the pieces, Wallace invented a style writers have plundered for a decade. The unedited camera, the feed before the director in the van starts making choices and cuts. The voice was humane, a big, kind brain tripping over its own lumps. "The Harper's pieces were me peeling back my skull," Wallace said. "You know, welcome to my mind for 20 pages, see through my eyes, here's pretty much all the French curls and crazy circles. The trick was to have it be honest but also interesting — because most of our thoughts aren't all that interesting. To be honest with a motive." He laughed. "There's a certain persona created, that's a little stupider and schmuckier than I am."The cruise-ship piece ran in January 1996, a month before David's novel was published. People photocopied it, faxed it to each other, read it over the phone. When people tell you they're fans of David Foster Wallace, what they're often telling you is that they've read the cruise-ship piece; Wallace would make it the title essay in his first collection of journalism, A Supposedly Fun Thing I'll Never Do Again. In a way, the difference between the fiction and the nonfiction reads as the difference between Wallace's social self and his private self. The essays were endlessly charming, they were the best friend you'd ever have, spotting everything, whispering jokes, sweeping you past what was irritating or boring or awful in humane style. Wallace's fiction, especially after Infinite Jest, would turn chilly, dark, abstract. You could imagine the author of the fiction sinking into a depression. The nonfiction writer was an impervious sun.The novel came out in February of 1996. In New York Magazine, Walter Kirn wrote, "The competition has been obliterated. It's as though Paul Bunyan had joined the NFL, or Wittgenstein had gone on Jeopardy! The novel is that colossally disruptive. And that spectacularly good." He was in Newsweek, Time, Hollywood people appeared at his readings, women batted their eyelashes, men in the back rows scowled, envied. A FedEx guy rang his bell, watched David sign for delivery, asked, "How's it feel to be famous?"At the end of his book tour, I spent a week with David. He talked about the "greasy thrill of fame" and what it might mean to his writing. "When I was 25, I would've given a couple of digits off my non-use hand for this," he said. "I feel good, because I wanna be doing this for 40 more years, you know? So I've got to find some way to enjoy this that doesn't involve getting eaten by it."He was astonishingly good, quick company, making you feel both wide awake and as if your shoes had been tied together. He'd say things like, "There's good self-consciousness, and then there's toxic, paralyzing, raped-by-psychic-Bedouins self-consciousness." He talked about a kind of shyness that turned social life impossibly complicated. "I think being shy basically means being self-absorbed to the point that it makes it difficult to be around other people. For instance, if I'm hanging out with you, I can't even tell whether I like you or not because I'm too worried about whether you like me."He said one interviewer had devoted tons of energy to the genius question. "That was his whole thing, 'Are you normal?' 'Are you normal?' I think one of the true ways I've gotten smarter is that I've realized that there are ways other people are a lot smarter than me. My biggest asset as a writer is that I'm pretty much like everybody else. The parts of me that used to think I was different or smarter or whatever almost made me die."It had been difficult, during the summer, to watch his sister get married. "I'm almost 35. I would like to get married and have kids. I haven't even started to work that shit out yet. I've come close a few times, but I tend to be interested in women that I turn out to not get along very well with. I have friends who say this is something that would be worth looking into with someone that you pay."Wallace was always dating somebody. "There were a lot of relationships," Amy says. He dated in his imaginative life too: When I visited him, one wall was taped with a giant Alanis Morissette poster. "The Alanis Morissette obsession followed the Melanie Griffith obsession — a six-year obsession," he said. "It was preceded by something that I will tell you I got teased a lot for, which was a terrible Margaret Thatcher obsession. All through college: posters of Margaret Thatcher, and ruminations on Margaret Thatcher. Having her really enjoy something I said, leaning forward and covering my hand with hers."He tended to date high-strung women — another symptom of his shyness. "Say what you want about them, psychotics tend to make the first move." Owning dogs was less complicated: "You don't get the feeling you're hurting their feelings all the time."His romantic anxieties were full-spectrum, every bit of the mechanics individually examined. He told me a joke:What does a writer say after sex?Was it as good for me as it was for you?"There is, in writing, a certain blend of sincerity and manipulation, of trying always to gauge what the particular effect of something is gonna be," he said. "It's a very precious asset that really needs to be turned off sometimes. My guess is that writers probably make fun, skilled, satisfactory, and seemingly considerate partners for other people. But that the experience for them is often rather lonely."One night Wallace met the writer Elizabeth Wurtzel, whose depression memoir, Prozac Nation, had recently been published. She thought he looked scruffy — jeans and the bandanna — and very smart. Another night, Wallace walked her home from a restaurant, sat with her in her lobby, spent some time trying to talk his way upstairs. It charmed Wurtzel: "You know, he might have had this enormous brain, but at the end of the day, he still was a guy."Wallace and Wurtzel didn't really talk about the personal experience they had in common — depression, a substance history, consultations at McLean — but about their profession, about what to do with fame. Wallace, again, had set impossible standards for himself. "It really disturbed him, the possibility that success could taint you," she recalls. "He was very interested in purity, in the idea of authenticity — the way some people are into the idea of being cool. He had keeping it real down to a science."When Wallace wrote her, he was still curling through the same topic. "I go through a loop in which I notice all the ways I am self-centered and careerist and not true to standards and values that transcend my own petty interests, and feel like I'm not one of the good ones. But then I countenance the fact that at least here I am worrying about it, noticing all the ways I fall short of integrity, and I imagine that maybe people without any integrity at all don't notice or worry about it; so then I feel better about myself. It's all very confusing. I think I'm very honest and candid, but I'm also proud of how honest and candid I am — so where does that put me?"Success can be as difficult to recover from as failure. "You know the tic big-league pitchers have," his mother says, "when they know that they've pitched a marvelous game — but gee, can they do it again, so they keep flexing that arm? There was some of that. Where he said, 'OK. Good, that came out well. But can I do it again?' That was the feeling I got. There was always the shadow waiting."Wallace saw it that way too. "My big worry," he said, "is that this will just up my expectations for myself. And expectations are a very fine line. Up to a certain point they can be motivating, can be kind of a flamethrower held to your ass. Past that point they're toxic and paralyzing. I'm scared that I'll fuck up and plunge into a compressed version of what I went through before."Mark Costello was also worried. "Work got very hard. He didn't get these gifts from God anymore, he didn't get these six-week periods where he got exactly the 120 pages he needed. So he found distraction in other places." He would get engaged, then unengaged. He would call friends: "Next weekend, Saturday, you gotta be in Rochester, Minnesota, I'm getting married." But then it would be Sunday, or the next week, and he'd have called it off."He almost got married a few times," Amy says. "I think what ultimately happened is he was doing it more for the other person than himself. And he realized that wasn't doing the other person any favors."Wallace told Costello about a woman he had become involved with. "He said, 'She gets mad at me because I never want to leave the house.' 'Honey, let's go to the mall.' 'No, I want to write.' 'But you never do write.' 'But I don't know if I'm going to write. So I have to be here in case it happens.' This went on for years."In 2000, Wallace wrote a letter to his friend Evan Wright, a Rolling Stone contributor: "I know about still having trouble with relationships. (Boy oh boy, do I.) But coming to enjoy my own company more and more — most of the time. I know about some darkness every day (and some days, it's all dark for me)." He wrote about meeting a woman, having things move too easily, deciding against it. "I think whatever the pull is for me is largely composed of wanting the Big Yes, of wanting someone else to want you (Cheap Trick lives). . . . So now I don't know what to do. Probably nothing, which seems to be the Sign that the universe or its CEO is sending me."In the summer of 2001, Wallace relocated to Claremont, California, to become the Roy Edward Disney Chair in Creative Writing, at Pomona College. He published stories and essays, but was having trouble with his work. After he reported on John McCain's 2000 presidential campaign for this magazine, he wrote his agent that it would show his editor that "I'm still capable of good work (my own insecurities, I know)."Wallace had received a MacArthur "genius" award in 1997. "I don't think it did him any favors," says Franzen. "It conferred the mantle of 'genius' on him, which he had of course craved and sought and thought was his due. But I think he felt, 'Now I have to be even smarter.' " In late 2001, Costello called Wallace. "He was talking about how hard the writing was. And I said, lightheartedly, 'Dave, you're a genius.' Meaning, people aren't going to forget about you. You're not going to wind up in a Wendy's. He said, 'All that makes me think is that I've fooled you, too.'"Wallace met Karen Green a few months after moving to Claremont. Green, a painter, admired David's work. It was a sort of artistic exchange, an inter-disciplinary blind date. "She wanted to do some paintings based on some of David's stories," his mother says. "They had a mutual friend, and she thought she would ask permission.""He was totally gaga," Wright recalls. "He called, head over heels, he was talking about her as a life-changing event." Franzen met Green the following year. "I felt in about three minutes that he'd finally found somebody who was up to the task of living with Dave. She's beautiful, incredibly strong, and a real grown-up — she had a center that was not about landing the genius Dave Wallace."They made their debut as a couple with Wallace's parents in July 2003, attending the Maine culinary festival that would provide the title for his last book, Consider the Lobster. "They were both so quick," his father says. "They would get things and look at each other and laugh, without having to say what had struck them as funny." The next year, Wallace and Green flew to his parents' home in Illinois, where they were married two days after Christmas. It was a surprise wedding. David told his mother he wanted to take the family to what he called a "high-gussy" lunch. Sally Wallace assumed it was Karen's influence. "David does not do high gussy," she says. "His notion of high gussy is maybe long pants instead of shorts or a T-shirt with two holes instead of 18." Green and Wallace left the house early to "run errands," while Amy figured out a pretext to get their parents to the courthouse on the way to the lunch. "We went upstairs," Sally says, "and saw Karen with a bouquet, and David dressed up with a flower in his buttonhole, and we knew. He just looked so happy, just radiating happiness." Their reception was at an Urbana restaurant. "As we left in the snow," Sally says, "David and Karen were walking away from us. He wanted us to take pictures, and Jim did. David was jumping in the air and clicking his heels. That became the wedding announcement."According to Wallace's family and friends, the last six years — until the final one — were the best of his life. The marriage was happy, university life good, Karen and David had two dogs, Warner and Bella, they bought a lovely house. "Dave in a real house," Franzen says, laughing, "with real furniture and real style."To Franzen's eye, he was watching Wallace grow up. There had been in David a kind of purposeful avoidance of the normal. Once, they'd gone to a literary party in the city. They walked in the front door together, but by the time Franzen got to the kitchen, he realized Wallace had disappeared. "I went back and proceeded to search the whole place," Franzen recalled. "He had walked into the bathroom to lose me, then turned on his heels and walked right back out the front door."Now, that sort of thing had stopped. "He had reason to hope," Franzen said. "He had the resources to be more grown-up, a wholer person."And then there were the dogs. "He had a predilection for dogs who'd been abused, and unlikely to find other owners who were going to be patient enough for them," Franzen says. "Whether through a sense of identification or sympathy, he had a very hard time disciplining them. But you couldn't see his attentiveness to the dogs without getting a lump in your throat."Because Wallace was secure, he began to talk about going off Nardil, the antidepressant he had taken for nearly two decades. The drug had a long list of side effects, including the potential of very high blood pressure. "It had been a fixture of my morbid fear about Dave — that he would not last all that long, with the wear and tear on his heart," Franzen says. "I worried that I was going to lose him in his early 50s." Costello said that Wallace complained the drug made him feel "filtered." "He said, 'I don't want to be on this stuff for the rest of my life.' He wanted to be more a member of the human race."In June of 2007, Wallace and Green were at an Indian restaurant with David's parents in Claremont. David suddenly felt very sick — intense stomach pains. They stayed with him for days. When he went to doctors, he was told that something he'd eaten might have interacted with the Nardil. They suggested he try going off the drug and seeing if another approach might work."So at that point," says his sister Amy, with an edge in her voice, it was determined, 'Oh, well, gosh, we've made so much pharmaceutical progress in the last two decades that I'm sure we can find something that can knock out that pesky depression without all these side effects.' They had no idea that it was the only thing that was keeping him alive."Wallace would have to taper off the old drug and then taper on to a new one. "He knew it was going to be rough," says Franzen. "But he was feeling like he could finally afford a year to do the job. He figured that he was going to go on to something else, at least temporarily. He was a perfectionist, you know? He wanted to be perfect, and taking Nardil was not perfect."That summer, David began to phase out the Nardil. His doctors began prescribing other medications, none of which seemed to help. "They could find nothing," his mother says softly. "Nothing." In September, David asked Amy to forgo her annual fall-break visit. He wasn't up to it. By October, his symptoms had become bad enough to send him to the hospital. His parents didn't know what to do. "I started worrying about that," Sally says, "but then it seemed OK." He began to drop weight. By that fall, he looked like a college kid again: longish hair, eyes intense, as if he had just stepped out of an Amherst classroom.When Amy talked to him on the phone, "sometimes he was his old self," she says. "The worst question you could ask David in the last year was 'how are you?' And it's almost impossible to have a conversation with someone you don't see regularly without that question." Wallace was very honest with her. He'd answer, "I'm not all right. I'm trying to be, but I'm not all right."Despite his struggle, Wallace managed to keep teaching. He was dedicated to his students: He would write six pages of comments to a short story, joke with his class, fight them to try harder. During office hours, if there was a grammar question he couldn't answer, he'd phone his mother. "He would call me and say, 'Mom, I've got this student right here. Explain to me one more time why this is wrong.' You could hear the student sort of laughing in the background. 'Here's David Foster Wallace calling his mother.' "In early May, at the end of the school year, he sat down with some graduating seniors from his fiction class at a nearby cafe. Wallace answered their jittery writer's-future questions. "He got choked up at the end," recalls Bennett Sims, one of his students. "He started to tell us how much he would miss us, and he began to cry. And because I had never seen Dave cry, I thought he was just joking. Then, awfully, he sniffled and said, 'Go ahead and laugh — here I am crying — but I really am going to miss all of you.' "His parents were scheduled to visit the next month. In June, when Sally spoke with her son, he said, "I can't wait, it'll be wonderful, we'll have big fun." The next day, he called and said, "Mom, I have two favors to ask you. Would you please not come?" She said OK. Then Wallace asked, "Would your feelings not be hurt?"No medications had worked; the depression wouldn't lift. "After this year of absolute hell for David," Sally says, "they decided to go back to the Nardil." The doctors also administered 12 courses of electroconvulsive therapy, waiting for Wallace's medication to become effective. "Twelve," Sally repeats. "Such brutal treatments," Jim says. "It was clear then things were bad."Wallace had always been terrified of shock therapy. "It scares the shit out of me," he told me in 1996. "My brain's what I've got. But I could see that at a certain point, you might beg for it."In late June, Franzen, who was in Berlin, grew worried. "I actually woke up one night," he says. "Our communications had a rhythm, and I thought, 'It's been too long since I heard from Dave.' " When Franzen called, Karen said to come immediately: David had tried to kill himself.Franzen spent a week with Wallace in July. David had dropped 70 pounds in a year. "He was thinner than I'd ever seen him. There was a look in his eyes: terrified, terribly sad, and far away. Still, he was fun to be with, even at 10 percent strength." Franzen would sit with Wallace in the living room and play with the dogs, or step outside with David while he smoked a cigarette. "We argued about stuff. He was doing his usual line about, 'A dog's mouth is practically a disinfectant, it's so clean. Not like human saliva, dog saliva is marvelously germ-resistant.'" Before he left, Wallace thanked him for coming. "I felt grateful that he allowed me to be there," Franzen says.Six weeks later, Wallace asked his parents to come to California. The Nardil wasn't working. It can happen with an antidepressant; a patient goes off, returns, and the medication has lost its efficacy. Wallace couldn't sleep. He was afraid to leave the house. He asked, "What if I meet one of my students?" "He didn't want anyone to see him the way he was," his father says. "It was just awful to see. If a student saw him, they would have put their arms around him and hugged him, I'm sure."His parents stayed for 10 days. "He was just desperate," his mother says. "He was afraid it wasn't ever going to work. He was suffering. We just kept holding him, saying if he could just hang on, it would straighten. He was very brave for a very long time."Wallace and his parents would get up at six in the morning and walk the dogs. They watched DVDs of The Wire, talked. Sally cooked David's favorite dishes, heavy comfort foods — pot pies, casseroles, strawberries in cream. "We kept telling him we were so glad he was alive," his mother recalls. "But my feeling is that, even then, he was leaving the planet. He just couldn't take it."One afternoon before they left, David was very upset. His mother sat on the floor beside him. "I just rubbed his arm. He said he was glad I was his mom. I told him it was an honor."At the end of August, Franzen called. All summer long he had been telling David that as bad as things were, they were going to be better, and then he'd be better than he'd ever been. David would say, "Keep talking like that — it's helping." But this time it wasn't helping. "He was far away," Franzen says. A few weeks later, Karen left David alone with the dogs for a few hours. When she came home that night, he had hanged himself."I can't get the image out of my head," his sister says. "David and his dogs, and it's dark. I'm sure he kissed them on the mouth, and told them he was sorry."[From Issue 1064 -- October 30, 2008]Winner: Rolling Stone: Jann Wenner, editor and publisher; Will Dana, managing editor, for The Lost Years & Last Days of David Foster Wallace, by David Lipsky, October 30.
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